奇籍の人 黄沙の精霊  沙の色にくすんだ風が、埃をまきあげた。かわききった大地は見わたす限りどこまでも赤茶色一色に染まっている。太陽はまだ高い位置にある筈だが、沙塵に遮られて、ぼんやりとした灯のようにしか見えない。固い岩は激しく吹きつける風に砕かれて、さらさらと儚い音をたてて流れる沙は視界を奪い呼吸を阻む。一面の沙とその堆積した山ばかりの中で、僅かに残っていた岩陰から。あまり大きくはない黒影があたりを窺うようにゆっくりと現われた。厚手の外衣を頭からすっぽりと被っている。鼻から下は茶とも黄ともつかぬ布で隠していたが、鋭い輝きを放つその双眸は、深く静かな泉のように澄んでいた。その傍らから這い出るように、黒影からひとまわり大きい影が、のっそりと姿をみせた。灰色の外衣はもとは白か、薄茶色だったのかも知れない。沙塵舞う中では当然だろうが、こちらも同様に口布をあてている。 「……」  無言のまま、黒影が歩き始めた。それに従うように、もう一つの影が続く。沙塵は、足に絡むように唸り、風は一層高い音をたてて行く手を遮る。苦行者にも似たその姿が完全に見えなくなるには、長い時間を必要とはしなかった。  二つの影がその宿屋に到着したのは、日も暮れかけた頃だった。無言のまま入口で沙埃を払う旅人を、宿屋の主が不可思議なものを見る目で見ていたのは、この季節に沙漠を越えてくる旅行者が珍しいからである。まかり間違えば、沙嵐の多いこの時季、遭難しているかも知れない。そんな時候に沙漠を越えて来るのは、死人か幽鬼――鬼籍に在る者だという伝承があった。不吉な、と思いはすれど、ただでさえ客の少ない季節の貴重な客を、断る方がどうかしている。  かがんでいた黒影の主が立ち上がって、その頭布が外れた瞬間、主のみならず居合わせた者全てが動きを止めた。沙埃に塗れていてさえ輝きを失わないその艶やかな髪は、夜の闇よりも深く昏い漆黒であり、立ったまま頭布を払った灰衣の人物の髪は、日の光よりも眩しい程の白銀であった。 「……」  声にならないどよめきの波か、それとも感情の揺れが空気を動かしたか。黒髪の主がそちらを見据えた。好対照と言える頭髪と同様に、容貌もまた対照的であった。肩をおおう程の黒髪はきつい癖があり、意志の強さを感じさせるしっかりした眉と、強い輝きを放つ双眸が、やや整い過ぎたきらいのある貌に、適当な野性味を加えている。一方の銀髪は腰のあたりまで伸び、不自然な程に真直ぐで、大柄の割にほっそりした印象を与える面差しは、どこか名家の令息であることを思わせた。 「個室が二つあれば」  そう言いかけたのは黒髪の方であったが。 「牀さえ二つあるなら、同室でも良かろう」  水を注すように銀髪の方が、言葉を添えた。じろり。と鋭い眼差しで睨むが、睨まれた方は全く意に介す様子はない。 「申し訳ございません、個室は生憎満室でして。牀二つの個室なら一部屋だけ、ご用意出来ますが」  混雑しているとも思えぬ宿屋の主の言葉は、矢鱈空々しく感じられたが、気にする風もなく。 「ではそこを」  銀髪が貴公子然とそう答え、主は軽く頭を下げて下働きの者に目配せをした。  部屋の片隅に、目立たない帽子を顔に載せた男が、卓子に足を投げ出して座っていた。片手で帽子を僅かにずらし、ぎらぎらした目を片方だけ覗かせて、こちらに視線を送ってくる。顔は一面の髭でどこまでが髪でどこからが髭なのかはっきり判らないが、両方ともぼさぼさしているのは確かだった。 「よう、黒の」  響きわたる、という程ではないが、黒髪には伝わった。そちらに首を向けると、髭の男は低い声を更に潜めて、こちらに向ってそっと片目を閉じた。 「“影”、薄くなってるぜ。気ィつけな」 「謝々」  その声に軽く手を挙げて応じると、男は元のように再び帽子を顔に載せた。黒髪は周囲に気づかれぬように足を少し強く踏みしめた。すると、見る間に影が濃くなっていく。幸い、辺りに気づいた者は他にいないようだった。ほっとして銀髪の方を見ると、何と完全に影が消えている。何気ない風で近き、よろめいた振りを装いその足の甲を踏んづける。 「痛ッ」 「悪い」  口でだけそう言っているが、周囲に配慮しての発言なので、実際にそう思っていないことが相手に明白であっても構わない。悲鳴に気づいて此方を見た者も居たが、それまでには影も回復していて、大丈夫そうだった。心の中で安堵しつつも、鋭く突き刺すような目で睨み。 「気をつけろ。ここが何処なのかを忘れるな」  耳に口を寄せて話すのは、内容を聞かれたくない為だったが、何しろ人目を惹く際立った容姿の持主。しかも二人である。そうしている様が目立たない筈がない。本人達の意識がどこに在るにせよ、白銀と漆黒の組み合わせは恐らく凡庸な容姿であったとしても目立っていたに違いないが。自身をちらちらと盗み見して値踏みする様子の者が幾人かいるのに気づいて、黒髪がそっと身を離す。それまで辺りに立ちこめていた微妙な空気が散じて、なぜか一斉に大きな溜息が各所から漏れた。  下働きの者が、黒髪の元へとやってきた。思いがけなく間近でその顔を直視してしまい、あんぐりと口を開けたまま停止する。 「……何か用があったんじゃないのか」  些かうんざりした様子でそう言ってみると、頬をかすかに染めたまま、人形めいた動作で肯く。 「お、部屋、の、し、支度が」  上ずった掠れ声がようやく咽喉から絞り出されたが、それを左手で押し止めて。 「判った。無理に声を出す必要はない。案内してくれ」  それだけを言うと部屋の隅に立てかけてあった袋を肩にした。下働きの少年は慌てて二人組の先に立ち、歩き出した。  入浴の必要は本来ならないが、使用した形跡を残さねば不審がられる可能性もある。だが、そんなことはどうでも良かった。久しぶりの入浴を、黒髪は楽しんだ。浴室を出て牀に戻ると、銀髪は既に寝入っていた。好むと好まざるとに関わらず、これからこの二人で旅をしていかねばならない。先の事を思えば気が滅入るが、さりとて全く考えなしに進んで結果が得られるものとも思えなかった。堂々巡りの思考を頭から追い払って、黒髪は眠りについた。  白い世界の中で、自分だけに色があった。足元には水のような液体が湛えられているが、酷く重く足を捉えて放さない。  ――どこかへ行かねばならない。  ――……が俺を待っている。行かねば。一刻も早く。  ――……とは誰のことだ? 俺はいったい……。  思考の袋小路にはまった時、足元が底無し沼に変わった。自然に体がのみ込まれていく。  ――行かねば。俺が……を忘れても。  頭の天辺まで体がのみ込まれた時、漸く覚醒した。  目を開くと、視界に飛び込んできたのは、白銀の世界だった。と思ったら、同じ牀の中にいつの間にか銀髪がもぐりこんでいた。しかも体の上に半分乗っかるような恰好である。重くて苦しくて目が醒めたのはこういうことだったのか、と合点が行ったが、それが嬉しい筈もない。 「白狼ーーーーー!! 寝惚けんな!」  怒声と共に牀から蹴り出そうとするが、体格に比例して重量も差があるので中々難しい。白狼と呼ばれた銀髪は、熟睡しているようで、動く気配もない。ただ、のっそりと寝返りを打っただけだった。そのお陰で体は漸く自由になったかに思えたが、手足の上にどっかりと乗っかられていて、完全には脱出出来ていない。自由な方の手を伸ばして白狼の体を持ち上げ、何とか引っ張り出そうとするが、それを嫌がるかのように銀髪はますますこちらにのしかかってくる。その様を譬えてみれば、熊か大型の犬科の動物あたりが近いかも知れない。漸く両手が自由になり、それを支えにして足を引っ張り出す。自由になったばかりの方の手はちょっと痺れがある。軽く手を振って、痺れ具合を確かめる。多少力は入らないが、まあ何とかなりそうだった。 「起きんかっ! 白狼!!」  両手で銀髪の頭を持ち上げて、放り出す。それで足の方も自由になった。牀から盛大な音を立てて大柄な体が落ちるが、それでも目が醒めた様子はなかった。 「まったく、もう。先が思いやられる……」  そういって、深く吐息をつき、諦めたように首を振って、もう一度布団にもぐりこんだ。  翌朝早く、黒白一対の旅人はその宿屋を発った。目立ちすぎたという焦燥が黒髪に早朝から動くことを強いたのかも知れない。床の上で目覚めた銀髪の方は、自分が床に寝ていたことを気に掛ける様子はなかったが、それはもしかしたらいつものことだったのか。 「もうお発ちに?」  空は明るくなっているとはいえ、まだ空気に凛とした涼しさが漂う。朝食をしたためたらすぐに出る、という旅人の言葉は本来なら普通である筈だが、まだ完全に明るくなっていない時間では主の言葉も当然と言えた。たまに払暁に出る旅人も居なくはないが、旅があまり安全とは言えない現在、そういう勤勉な者は稀である。 「世話になった。今度来る時があれば個室にしたい」 「ありがとうございます、その節には是非」  商売気たっぷりに揉み手をしながら応える主の顔は、社交辞令がぴったりと張り付いているようだった。  宿屋を出ると、無言のままに二人の旅人は先へ進んだ。これからの行程について既にお互い把握済みなのだろう。黙々と歩を進めるのは、相手と気が合うからそれが許されるのか、または相手と気が合わないから軋轢を避けるためなのか、どちらか量りかねるが、黒髪の眉間にある微かな皺が後者であることを予感させた。 「黒鷲」  今朝から一言も発していなかった銀髪――白狼が唐突に声をあげた。振り向くと、無言のまま何かを指している。そちらの方を見ると、沙煙らしき風が遠くに見えた。 「沙嵐か」  口布を当てたまま「諾」と応える。元々口数の多い人間ではないが、不要と判断すれば一生涯でも黙っていそうだった。 「昨日の今日でか」  そう吐き捨てるように言ったのは、昨日宿屋にたどり着く前に、大分長いこと、沙嵐の為に足止めを食ったからだ。いざとなれば沙嵐の中でも進めはするが、それは極力避けるべきだった。 「避けられないかな?」  そう言ったのは半ば自問自答であったが、白狼は軽く頭を横に振った。 「こちらに向って来る。回避困難」  正確無比の機械というものが存在するのであれば、それはこうあるのかも知れない。今はそれどころではない筈だったが、唐突にそう思ったのは、銀髪の無機質な回答のせいだったろう。 「判った」  そうしてあたりを見回して、避難出来る場所を探す。昨日のような岩場はないにしても、せめて風を凌げるところが必要だった。しかしその黒鷲の努力の成果を見る前に、銀髪がてくてくと歩き出す。 「おい?」 「避難」  やり過ごせる場所を見つけたようだ。沙嵐に関しては黒髪よりも白狼に一日の長がある。もともと乾燥地帯の出身だったから、当然と言えた。しかし黒鷲にとって理解不能な行動が多過ぎて、些か不慣れな人にとっては不親切であるとも思える。尤も、それについて銀髪が自身をどう思っているかは謎である。 「ここに」  身を寄せれば、漸く二人が隠れることが出来そうな場所があった。それを見つけた白狼の慧眼に謝する必要はあるだろう。 「感謝する」  口を開くのを避ける為か、銀髪はただ肯いた。徐々に流れる沙が増してきていて、口布を当てていてさえ沙が入り込んできそうである。こんなに早く沙嵐が来ると判っていたなら、宿屋を出るのをもう少し遅らせるべきだったかも知れない。と思いかけたが、白狼が出発に同行した以上、あまり意味がなかったかも知れない。沙の唸る音が近づいて来、黒鷲は口布を目のあたりにまで寄せ、目を閉じた。沙を避けるために。  深い闇の中に、遠い記憶が蘇る。遥かな過去、あるいは未来。この役目を与えられたときの光景が。  鮮やかで深い朱色で塗られた太い柱が、数知れず立ち並ぶ。一抱えほどもありそうな柱がずらりと、そして延々と並ぶ様は、壮観という言葉を通り越して、驚き呆れる以外の表現が不可能だった。壁は白さの中にほのぼのとした温かさを垣間見せるような色合いで、そこには純白の白特有の冷たさはない。人肌か、象牙のような温かさを持つ、やわらかい白であった。穢れなき乙女の白い肌と紅の唇のような、凛とした色が、この堂宇の色であった。歩けば、こつこつ。と鋭い足音が辺りに響き渡りそうである。だが、今は物音ひとつなく、水を打ったように静まり返っている。その中央に、聳えるように長く続く巨大な階があった。比喩的表現でなく、天にまでも届きそうである。階の両端もまた、鮮やかで深い朱色の柱が縁取っている。その階には、どうやって作られたのかさえも定かではない、長く巨大な敷物が一面に敷き詰められている。やわらかさを失わないながらも煌き輝くような光沢は、上質の絹のように見えた。ふと、頭上に圧迫感がないことに気づけば、この堂宇には天井が存在するかどうかすら怪しいとさえ思える。いや、もしかしたらあるのだろう。永劫の時を費やしても到達出来ぬ程の高さに。  緊張の面持ちのまま、その下に膝をついた白狼と黒鷲が、空から降ってくるような声を、目を伏せたままに聴いている。「世」の境目にあってさえ最も厭わしい身を――点鬼簿に載せられぬ身を、厭うことなく面白がるでもなく、ただそのままに温かく受け入れる声だった。深くやさしい声は、――今は覗き見ることは出来ぬが――その深い色をした瞳に、限りなく似つかわしいと思えた。それが闇の色、と称されることを二人は知っている。しかし、その闇は禁忌を封印した禍々しく厭わしいものではなく、寧ろその穏やかな安らぎの色で、包みこむような温かさこそを与えてくれるものだ。厳しいその表情が緩むことはなくとも。 「望みを」 「私は……、私が望む者を取り戻したいのです」  澄んだ声色で、銀色の髪の主は、淡々と答えた。それはまるで彼が呼吸するのと同じくらい、普通に、当たり前のことのように。それを望むことがどういうことかを知らぬ訳ではないのに。 「……俺も、取り戻したい、です」  不器用さが声にまで表れたような、と表現したくなる声だった。気負いのようなものが少し肩のあたりに入っている。階の上の人は、彼らを見ている目を、そっと細めた。懐かしい何かを見ているように。 「では、お前たちは、それを叶えるために、これから命じる仕事をせねばならぬ。いつそれが叶うかは誰も知ることは出来ぬ。無限の時をそれに費やすとしても、その叶えられるべき願いが、叶うとは限らぬ。お前たちの願いは、それほどに重い。だが、それでもそれを願うのであれば」  階の上の人がそれより先を続けることは出来なかった。遮るように階下の二人が答えたからだ。しかし、それを非礼と咎める者はいない。……この世には。 「はい」 「どのような事でも」  瞳の色は違うが、宿した決意の色は似ていた。望むことが罪そのものになるなら、彼らの願いはまさに罪といえた。だが、それを罪とするなら、既に彼らは罰を受けている。階の上の人は、その深い色をした目を軽く閉じて、そっと肯いた。 「行くが良い。お前たちの願いを、叶えるために」  それは、階の上の人が許された、唯一の言祝ぎの言葉だった。手向けられる言葉に限りがあるとすれば、階の上の人は最小限で、最大限の効力を発揮する言葉を熟知していた。解き放たれた鳩のように、力強く二人が旅立てるように、と。  風が止むのを待って、再び沙の中へと足を運ぶ。もう、そんなに遠くはない筈だった。目の前に広がる沙の海は埃を舞い上げていたけれど、どこか哀しい匂いが漂うような気がした。とそう思うのは、この先にある筈の光景が、目に浮かぶからかも知れない。 「この先だ」  白狼が先に立って進む。やや小柄な黒鷲は少し遅れがちだったが、体力差よりも気候への慣れの有無が両者の状態を別けているようだった。深く息を吐いたのは、息が上がっていたからである。少しでも清浄な酸素を、と思ったのだが、沙塵飛び交う中で呼吸をするものにそれは無理な相談だった。 「……」  額にかいた汗を袖口で拭う。袖についた沙埃が汗で額につくが、それを気にしている余裕はない。空気はからりとしてはいるが、それでも気温の高さはどうしようもない。夜となれば冷えるだろうが、それも適度な涼しさとは無縁だろう。しかも昼日中にそれを期待するのは間違いである。  荒涼とした沙漠の果て。沙に埋もれるように、それはあった。半ば倒壊した家屋が幾つか、ほんの少し地面から盛り上がっているように見える。いや、崩れ落ちて行った結果、そうなったのだろう。掘っ立て小屋さえももっとましなものであるに違いない。予想以上に凄まじく荒れ果てた様に、黒鷲は息を呑んだ。端切れが頼りなく柱にしがみつき、糸屑が散らばる。しかし、それは「恐らくそれであったもの」とつけるほうがより正しい。生活していた人達が居た、ということは判る。ただ、それは「遥か昔」だったろうという以外のことは判らなかった。既に流れた時間が長いものだったということは判る。朽ちかけた布がそれを語る。だが、どうやってそうなったかを語れる人は、ここには居ない。 「ここだ」  小さな集落の跡地であっただろうところを、無言で歩いていた白狼が、足を止めて片膝をついた。集落の中心であった場所、恐らく元は井戸か、泉だったろう。人が生きるのに必要不可欠のものは、この沙漠では宝石よりも財宝よりも価値のある宝だ。そのあたりで、蒼灰色の目をそっと伏せ、地面にそっと手を置く。いや、ぎりぎりで触れてはいない。翳すというほうがより正しいかも知れない。  ふわ、と辺りに銀色の風が舞った。それは銀髪の主を中心にして、徐々に勢いを増していき、やがて渦が轟くような音を立てて逆巻きはじめる。それは、超小型の嵐のようだった。掌の下の沙が轟々と音を立てて渦になる。擂鉢状の穴がその下にあるのが黒鷲にも見えた。 「来るぞ」  言わずもがなの予告から殆ど間を置かず、白茶けたものが空中に突如出現した。猛々しい気を纏ったそれは、まるで岩蜥蜴のように、乾ききった岩石みたいな皮膚と、風に晒され続けた紅玉石みたいな紅の瞳を持っていた。炯々とした光は何者をも容赦せぬ攻撃性を漲らせて、二人を威嚇する唸り声をあげる。獰猛きわまる容姿と様子ではあるが、二人ともそれに臆した様子はない。 「来い」  黒鷲の黒瞳がす、と細められた。噛みつかれそうなそれに対して、何故か懐かしいものを見る瞳で手を伸ばす。 「お前はもう、この世のものではない」  その掌から凄まじい音を立てて溢れ出たのは、水だった。それは、まるで自らの意志を持ったもののように、岩蜥蜴に飛びかかる。その水を正面から浴びて、岩蜥蜴が身を震わせる。それは、まるで夏の水浴びを楽しむ子供のようにも見えた。次の瞬間、岩蜥蜴に触れた水の先から、その記憶が凄まじい勢いで黒鷲の中に流れ込んでくる。迸る水の記憶。遥かなる昔、ここが沙漠の中の碧洲(オアシス)であった頃の土地そのものの記憶であった。力を放出し終えた黒髪の主が漸くその目を開いて岩蜥蜴を見たとき、その姿は一変していた。水に馴染んだ青い鱗に澄んだ青い瞳は、紛れもなく碧洲の精霊だった。それはただ、力の源であった水を失い、水を守るべき人々を失って地上に彷徨うだけの、存在だった。 「お前の役目が終わって、既に久しい。この世に固執してはならぬ。それはこの世の理そのものを枉げてしまうのだ」  言い聞かせる言葉が精霊に聞こえたかどうかは判らぬ。ただ、黒鷲の水を浴びたときのように、その青く澄んだ目を細めて身を震わせ、ぴょん。と跳ねて、そっと空気の中に溶けるように消えていった。それで全てだった。 「行くぞ」  淡々とかけられた声に、ああ、と返事を返す。そこには最早精霊の居た痕跡一つ残っていない。感情移入してしまう黒髪の主には、こんなときは情緒も感動も持たない相棒の存在が少しだけ有難い。下手に慰められるよりもその方がいっそ気が楽だった。尤も、常に無口無愛想無表情で何を考えているか判らないこの白狼が誰かを慰めている姿など、不気味過ぎて考えたくもなかったが。 「一旦戻って反対側から沙漠へ入り直す」 「はぁっ?!」  素っ頓狂な声をあげたのは黒髪の主だが、抗議を含んだ声にこれまた淡々と返す解説は、いっそ丁寧だった。 「距離的にはこちらから直行した方が早いが、沙漠に不慣れな者が同行することを考えると、たどり着くまでに負担が掛かりすぎる。ならば、一旦来た道を戻って、沙漠外周を迂回して行くほうが、一旦外周の町で休憩出来るし、恐らくその方が負担が少ない」  同行者といえば、この場合黒鷲以外の何者でもありえない。勿論、沙漠に不慣れな黒鷲を一応は労わってくれているのは理解出来たが、それはある意味舐められているような感覚があって、素直に受け入れる気分にはなれなかった。 「別にこのまま直行しても…」  言いかけたものの、口の中でもごもごと呟くだけに留まる。客観的な事実を考えれば、体格的に劣るだけでなく、沙漠地帯そのものへに慣れていない黒鷲がそのまま進めば、負担の上に負担をかけることは明白だったし、到着直後に先程のように術を使いこなせる状態で居られるかどうかは疑問の余地がある。今回はあまり力を使わずに済んだが、これから先も同程度で済むかどうかは判らない。体力は少しでも温存しておかねばならないし、迂回は若干時間がかかるにせよ、長い目で見れば、無理をして中途で倒れるよりはその方が良いということは、子供でも判ることだ。先が見えない長い旅をはじめて、それなりの月日は経過している。『願い』が叶う日がいつなのかは誰にも――おそらく、命じた人さえも――判らない。あと一回でその願いが叶うのなら、一度くらい無茶をしても良いのかも知れないが、先がどれほどなのか見当もつかぬ状態でそれを試みるのは愚か者か、余程自信があるものだろう。黒鷲は、少なくとも前者ではなかった。そして、妙な過信もしていなかった。 「判った」  そう短く答えると、白狼は少し右の眉を持ち上げつつ振り返った。後ろに続いているのが、誰なのかを確認するかのように。そして、黒鷲の顔をちら。と見て、微笑み未満の表情で、それに応じた。 「ああ」  先はまだまだ長い旅になりそうだった。