数日前、一人の男が妙神山を抜け出した。
 その男の名は陰念、GS試験で己の力量では制御できない技に頼り、その身を妖怪にしてしまった男である。


 

 彼は妙神山で治療を受け、そこで”メドーサの弟子”を更正させることに意欲を燃やす小竜姫に修行、というか半ば説教を受ける事となった。
 しかし、魔族であるメドーサの元で修行してきた彼にとって、それは多大な違和感を伴うものだった。
 メドーサのところでの修行といえば一通り仕込まれ、その後はひたすら実戦であった。それは同じくメドーサの元で修行していた雪之丞や勘九郎たちとのものであるときもあれば、自分たちとは、なんら関係のないGSを襲う(メドーサはそれを”出稽古”と言っていたが)ときもあった。それについていけないものは容赦なく切り捨てられ、二度と顔を見ることはなかった。
 比べて小竜姫の修行といえば、ひたすら基本、そして戦うこと、力を持つことの意味を懇々と諭すという、メドーサが聞けば鼻で笑いそうな内容であった。

 そんな、日々に不満と違和感を持ちながらも、彼には現状をどうすることもできなかった。小竜姫には当然のことながら敵わない。逃げようとしたところで無理。よって、それまでの彼には似合わぬ我慢を続けるしかなかった。
 そして彼は当たり前といえば当たり前の、しかし効果的な策を思いつく。そう、小竜姫の留守を狙い、逃げ出せば脱走も可能だということに。陰念はその日が来るのを待ち、そして脱走を決行した。
 鬼門の二人を騙すのは容易く、めでたく成功と相成ったわけだったのだが。






 グーッ

 木・苔・草など一色ではない緑で彩られた森の中に響いたのはまぎれもなく腹の虫が鳴く声だった。
 陰念は一つ舌打ちしただけではまだイライラを抑えきれないのか、手近の木を強く叩いた。しかし、百年以上の樹齢を数えるであろうその木は、ピクリともせず悠然とそこに在る。その様子に再び舌打ちを繰り返す。
 彼は空腹に耐えかねていた。妙神山を逃げ出してからの数日、彼が口にしたものといえば沢の水、そしてたまたま見つけた茸ぐらいのもので、その唯一の固形物である茸ですら、彼に一晩中の笑いをプレゼントしてくれた。そんなわけで、彼の空腹と、それに伴うイライラは頂点へと達していた。

 ターンッ

 音といえば虫と鳥の鳴き声ぐらいだった森の中に、甲高い銃声があたりに響いた。普通の人間であれば脅えこそすれ喜ばないその音は、彼の耳には救いの音として響いた。
 ”アイツから金をまきあげて……”追われている身としては騒ぎを起こして目立つのは避けたい。が、背に腹は変えられまい。なぁに、後ろから一撃でことを済ませばなんら問題はない、そんなことを考えながら物音を立てないよう銃声のした方向に進んでいく。
 数分もたたないうちに、茂みの中に自然の色ではない緑色を発見した。
 緑色のベストを着たハンター。背後に迫る人影には気づかず、銃口の先の獲物に狙いをつけている。
 陰念は獲物を狙う獲物の姿にニヤリと笑みを浮かべ、それまで以上に慎重に進んでいく。が、極度の空腹ともあれば、集中しているつもりでもできないものである。足元の枝を知覚できず、悪いことにそれを踏んでしまった。
 枝の折れた音に、驚き振り向くハンター。顔を見られたこと、そしてなによりハンターの持つライフルの銃口が、振り向いた際に自分に向いたことが、陰念を焦らせた。いくら霊能力があろうが銃で撃たれてはたまらない。
 瞬間、霊力を練り刃と化した右手でライフルを払う。そして返す一撃で、彼の右手の様に、そしてなにより突然襲い掛かられたことに茫然としているハンターを、逆袈裟に斬りつけた。
 空腹で力が入らなかったためか、あるいは焦ったせいで浅かったのか。倒れこんだハンターに外傷はなく、ただ気絶しただけのようだった。一連の動作と、罪悪感がない交ぜになった興奮で荒くなった呼吸を沈めようとしながら、彼は考え始めた。
 さて、どうするか? 一瞬とはいえ顔を見られてしまった。口封じをしてしまったほうがいいかもしれない、永久に。
 ふとGS試験前、いや妙神山にくる前の自分なら迷わずに殺していたであろうことに気づき思わず顔をしかめた。
 うつ伏せに倒れていたハンターを、仰向けに裏返す。一度右手を上げ、少しの間躊躇い、ゆっくりと下ろす。
 なにも殺さなくてもいいんじゃないのか?

「……悪く思うなよ」

 呟き右手に再び力を込め振り上げようとしたその瞬間、背後から物音がした。
 ビクッと振り向くと、遠方から誰かが勢いよく走ってくる。赤い前髪を伴った銀髪が特徴的な少女だった。少女は、砂煙をまきあげながら目の前で急ブレーキをかけ二人の前で止まった。

「ここは狩猟禁止地区!違法ハンターめ、拙者がっ――アレ?」

 少女は、拍子抜けした声をあげた。見れば彼女の標的であったはずの違法ハンターが昏倒していて、その傍に男が立っている。
 走ってきた勢いそのままに、彼とハンターの顔を交互に見る。一瞬、驚きで息というか心臓すら止まったものの、右手には高出力の霊波刀、驚異的といえる脚力、そして尻尾という異様といえる少女の姿が、かえって陰念を冷静にさせていた。

「これは……どういうことでござるか」

 陰念は、聞きたいのはこっちのほうだと思いながらも、少女の正体にはなんとなくあたりをつけていた。
 人狼という、霊力・身体能力ともに高く、尻尾の生えた狼と人の中間のような種族がいることをメドーサから聞いたことがある。

「その尻尾……お前人狼か?」

「そうでござるよ」

 陰念の確認にきょとんと答える。人狼が人馴れしているという話は聞いたことがない。自分が妙神山にいる間に何かあったのだろうか。

「ところでお主がやったのでござるか?」

 少女が気絶した違法ハンターの顔、そして陰念の霊波を放出している右手を見て尋ねる。

「えっ、あぁ、まぁな」

 この場ではそう答えるしかない。なるほどと二、三度うなずくと少しかがみ体を震わせる。

「クーッ、やっぱりGSは正義の味方なんでござるなぁ」

 霊能力者とGSは違う。しかし、陰念はそんなことよりも正義という言葉に笑い出したくなるような違和感を感じた。なんと自分と縁遠い言葉なのかと。そんな甘い言葉は小竜姫ぐらいしか似合うまい。
 そんな彼の視線を、感激に身を震わせる人狼の娘がポケットから取り出した一枚の写真が釘付けにした。

「拙者も修行して早く先生のようなGSに「横島?」」

 少女は自分の言葉を途中で遮った陰念の唐突な声に、不快ではなく驚きの表情を浮かべた。

「横島先生のことを知っているのでござるか?」

「ああ、GS試験で戦った」

 つい口が滑った。自分の悪癖だとはわかっているのだが悪癖とはなかなか直らないからこそ悪癖なのであろう。

『言わなくてもいいことを言う奴は使えないねぇ』

 何度もメドーサに聞かされた、自分を見下した冷たい言葉が脳裏によぎる。

「いや、その」

「”戦友”と書いて”とも”という仲でござるな」

「はっ?」「へっ?」

「い、いや―まぁ……そうだ」

 とんだ勘違いではあるが、この場から一刻も早く抜け出すために、のど元まで出かけた否定の言葉をかろうじて飲み込みうなずく。

「ところでなんでこの山に?」

「修行のためだ」

 今度の嘘はさらっとつけた。ただあながち嘘というわけでもない。数日前までは修行させられていたのだから。

「そうでござるか」

 少女はかがむと違法ハンターの体に手をかけた。「よっ」という掛け声とは裏腹に男の体を軽々と持ち上がった。さすが人狼と言うべきだろうか。

「どうするんだ?」

「ふもとの駐在さんのところに持っていくでござる……どこにいくのでござるか?」

「そんなことは俺の勝手だ、お前だけで行け」

 追われている身でわざわざ派出所に行く馬鹿もいない。派出所の人間が妙神山から陰念がいなくなったことを知っているかどうかは知らないが、そうではなくても気分的に近づきたくはない。

「金一封がもらえるのに」

 陰念の足がピタリと止まる。

「き、金一封?」

「拙者はそれでいつもドッグフードを買っているでござるが」

 人狼ってドッグフードを食べるのかという疑問がちらりと頭をかすめたが、それよちもその前に発した言葉が彼の意識を釘付けにした。
 金一封。無一文である陰念の耳には、魅力的すぎる響きを持った言葉であった。
 が、かろうじて初志を貫徹することに決めた。

「いや、いらん。修行をしにきたんだ」

「むぅ、ストイックでござるなぁ」

 感心したように頷くと、一礼をして去っていった。
 ハンターを抱え走り去っていく少女を見送りながら、それにしても今日は心臓に悪い日だ、と陰念は思わずにはいられなかった。
 とりあえず少女が行った道を辿っていけば麓に出るはずと考え、陰念は足を踏み出そうとした。そのとき、自分が致命的なミスをしたことに気がついた。
 そう、彼は財布を盗り忘れていた。
 次の瞬間、陰念の体内から長いため息と共に麓に向かう気力も抜けていってしまった。
 さっきの金一封の言葉が重く圧し掛かって来る。なにもかもどうでもよくなって、その場に腰を下ろした。
 さすがに追いかけて行こうにも、あの足の速さに追いつけるとは思えない。
 それに追いつけたとしてなんと切り出すのか? 財布を盗み忘れたから、やっぱり金一封を俺にくれとでも? 馬鹿馬鹿しい。

「くそっ、あの犬っころめ」

 足を動かすことをやめ、ゴロリと寝転んだ。視界をのんびりと雲が流れていく。やはり、それすらも今の陰念にはうっとうしく思えた。

 そしていつのまにか寝てしまった。









「今日も平和じゃなぁ」

 緑茶をすすりながら青い警察の制服を着た初老の男が呟いた。こんな山奥の村では、彼の仕事も見回りを除けばほとんどない。例外といえば、たまに人狼の少女が捕まえてくる違法ハンターの処理くらいだ。
 道の向こうから、自分より大きな男を抱えた少女が駆けてくる。噂をすれば何とやらだ。お茶を置くと、引き出しの中から用意してあった金の入った茶封筒を取り出し表に出た。

「こんにちはでござる」

 担いでいた男を降ろし、汗をぬぐいながら少女。

「おお、いつもご苦労さん」

 と答え金一封として茶封筒を渡そうとする。が、少女は一度受け取ろうと出した手を引っ込めた。

「あ、いや今回は」

「うん?」

 事情を聞くと、今回、ハンターを退治したのは自分ではなく山の中で修行していた男で、そしてその男に金一封を受け取ることを勧めたが断られたとのことだった。

「というわけで、今回は拙者が受け取るわけにはいかないのでござる」

「なるほど」

 少女の話を聞き終えそう答えると、少し考えてから口を開いた。

「ならこうしたらどうじゃ?まず、わしはお前さんに、これを渡す」

 と、茶封筒を少女の手に預ける。

「だから、それでは……」

 納得がいかない、と続けようとした少女を片手遮り、男は続けた。

「最後まで聞かんか。そしてこれを持ってお前さんはその男に何か奢ってやればよかろう、食べ物なら金を受け取るより抵抗は少ないじゃろ?それでも断られたらお前さんが受け取ればいい、お前さんだってこいつをここまで運んできたんじゃし」

「なるほど……しかし拙者は、その人がどこにいるか知らないのでござるが?」

「なに、その男がまだ山にいるならお前さんの鼻ならすぐに探せるじゃろう?」
 
「そういえば臭かったでござるなぁ」

 納得したようにうなずく少女に思わず苦笑する。

「じゃあ、受け取ってくれるか?」

「では、ありがたく」

 少女は、賞状でも受け取るかのように恭しく両手でそれを受け取った。









 陰念が、目を覚ますと日は傾きかけていた。グゥと腹が鳴った。起き上がろうとする気力もなく、ゴロリと寝返りを打つ。
 もはや悪態をつく気にもならない。不思議と頭によぎるのはメドーサの姿だった。
 メドーサの元にいたころ、陰念は自分が日々強くなっていくことに、そしてそれを証明することになんともいえない快感を覚えていた。
 小竜姫のところで修行していたころ、何度も何度も力を持つこと、そしてその力を使うことの意義を説かれた。
 最初はそれに反発した。それも当然のことで、彼は力とはそれそのものこそが貴重なものであり、それを使うことには至上の価値があると信じきっていたのだ。
 が、しばらくしたある日ふとそれに納得している自分がいた。それを基準として判断しようとする自分がいた。
 そうなっていく自分がひどく嫌だった。いや、そうなっていくのは自分には似つかわしくないことのように思えた。
 それがなんともやりきれなかった。
 だがそれもいまとなってはどうでもいいことだ。自分がどうなろうが知ったこっちゃない、もうどうにでも――

 ガサッ

 その物音に、今した決意を体が裏切った。

「な、何だ、誰だっ」

 驚き後ずさる陰念に声がかかってきた。どうやら熊や鹿ではないらしい。

「拙者でござるよ」

 声の主を確認すると、先ほどの少女だった。手にはクシャリと折れ曲がった茶封筒を持っている。

「何しに戻ってきたんだ」

「いや、この金一封でお礼に奢らせてほしいのでござるが」

 迷っているとグーと腹が鳴った。
 それで話は決まった。








 店内には、蒸気に混じった食べ物の匂いが充満している。

「注文はなんにするんだい」

 陰念は、無愛想で強欲そうなおよそ客商売に向かない印象を相手に持たせる老婆に、焼き魚定食を注文し、目の前の少女にも注文するよう促した。

「お前もなんか頼め」

「い、いや拙者が注文するわけには」

 顔の前で手を振り辞退しようとする。

「いや、目の前でそんなもん見せられちゃ、一人で食う気にはならん」

 陰念が指差した先では少女の尻尾が勢いよく左右に振られていた。

「い、いやこれは……じゃ、じゃあカツ丼を」

 そんな少女の様子に陰念はククッと笑う。ふと、自分がここ数日笑ってなかったことに気づいた。


 一人はよほど空腹だったのか、もう一人は単にいつもどおりのことなのか、驚異的な速さで食器を空にし、老婆を呆れさせた二人は、今は食後の茶を飲んでいる。

「ところでどうして修行をしているのでござるか?」

 世間話(ほとんど少女が一方的に喋っていただけだが)の途中、少女が唐突に聞いてきた。

「……わからん、気にしたこともないな。そういうお前は?」

「拙者は父上に立派な武士になると誓ったのでござる」

「父親?」

「父上は立派な武士でござった」

 どこか遠くを見るような目で呟いた。

「俺の知り合いにもそんな奴がいたな、そいつは母親のほうだったけど」

「親孝行な方なんでござるなぁ」

 感心したような人狼の少女の感想に、陰念はズズッと茶をすすりポツリと答えた。

「いや……アイツはただのマザコンだった」



 勘定を済ませ外に出ると太陽はすっかり沈んでしまっていた。

「ところで陰念殿はこれからどうするのでござるか?」

 今更、あそこに戻ったところでどうなるだろう? 再び受け入れてもらえるとでも? かといって他に行くところなんてない。麓に降りたとしても、今までの自分がしてきたことを、なぞるだけだろう。なぞるだけ、それの何が悪い?

「どうしたのでござるか?」

 考え込んでいた陰念の顔を、心配そうに顔を覗き込んでくる。そのまっすぐな瞳は自分がこんなことを考えているとは欠片も思っていないだろう。だが、それでいいのかもしれない。

「また修行でもするさ」

「そうでござるか、がんばるでござるよ」

 背を向け山への道を戻り始めた彼に、少女はいつまでも手を振っていた。













 霊峰・妙神山。その険しい山道の霧の中を一人の男が歩いてくる。

「「ああ〜、貴様、貴様っ!」」

 勢いづく鬼門が、観音開きに開いた。

「なんです騒がしい……あら、お帰りなさい」

 と驚かずに小竜姫。

「へぇ、なんだか出て行く前より、いい顔になったみたい」

「うるせえ、それより……また修行を受けたいんだがかまわないか?」

「「なっ? 貴様どの面下げてそんなことを…」」

 小竜姫は、陰念の言葉を身勝手と判断し非難しようとする鬼門を、片手をあげ黙らせる。

「本気なんですか?」

「ああ」

 問うた小竜姫の顔は真剣なものへと変わり、そのままジッと陰念の顔を見据える。先日の少女と似てはいるものの、厳しさを感じさせる点で異なる真っ直ぐなその視線に危うく目を逸らしそうになるがなんとか意志の力で堪える。
 どれぐらいそうしていたのだろうか? 実際には短い時間だったろうが、陰念には数時間のように感じられた。

 やがて小竜姫は再びニコリと笑い頷いた。

「わかりました、では中に」

 ふぅと力が抜けたような息をもらした。同時にその場にへたり込みそうになるが、さすがにそれはしなかった。
 招き入れる仕草に従い、寺の中に入ろうとする。が、そのとき陰念の肩がガッと掴まれた。

「……ただし修行の途中で逃げだした罰は受けてくださいね」

 振り向いて見た彼女の顔は笑顔のままだった
 ―――が、陰念の目にはとても小竜姫が笑っているようには見えなかった。



〜おわり〜