温かい思い出を持っている者は幸せだろうか?








 鬱蒼とした森の中、木の上の鳥が鳴き止み視線を落とした。
 鳥の目に映ったのは、すっかり湿った葉を踏んでゆく履き込まれたスニーカー。
 駆けているのは一人の少女。銀色の頭髪を靡かせている彼女は、雇い主から与えられた短い休暇を同僚である少年・少女と同じく、帰省にあてることを選んだ。
 走っているのは、人里離れた山の奥。そこに彼女が戻る故郷がある。
 望んで村から外の世界に出たとはいえ、幼少期を過ごした場所、なにより父親との思い出がある場所として、やはり郷愁は募る。

 坂を駆け、谷を越え、草を掻き分け踏み入るは一本の道。
 そこは彼女たち一族しか知らない獣道。一歩一歩彼女の足取りは速まっていく。もし疾走する彼女の姿を見る人間がいるなら、目にも留まらぬ速さと表現するであろう。しかし本人にすれば、その自分の足すらもどかしい。

 彼女の心中はどうあれ、一歩一歩、里は近づいていた。






 夕焼けに染まり始めた畑。勤勉に動かされ続けていた老人の鍬が止まった。
 息をつき腰を軽く叩きながら空を見上げる。
 茜色に染まった空に、夕日を遮る雲は無い。明日も晴れであろう。
 今日の仕事もここまでと、土まみれの鍬を担ぎ畝の間を抜けようとしたとき、老人の耳に一つの懐かしい声が届いた。
 声の主は、老人の立つ方に駆け寄ってくる一人の少女。少女の顔を確認すると思わず老人の顔がほころぶ。
 老人の目に映ったのは、里の者たちにとって妹のようであり、娘のようでも、あるいは老人のように長く年を重ねてきた者達にとっては孫のような存在。
 老人は穏やかに笑った。

「おお、帰ったか、シロ」

「ただいま!」

 シロと呼ばれた少女は太陽のような笑顔で、それに答えた。






 シロの帰省は日が沈むより早く里中に知れ渡り、あっというまに熊と猪の肉、そして酒が持ち寄られ、集会所で宴が開かれることとなった。

 肉七・野菜三の割合で構成されていた鍋の中は、クタクタになった白菜だけが浮いている。それに先程獲れたばかりの新鮮な熊肉と猪肉を足しながら男は尋ねた。

「それでどうじゃ、修行のほうは進んでおるのか?」

「ばっちりでござるよ」

「大丈夫だよな、なんでもシロの師匠は、アミタラズっつう魔神を倒したえらいGSらしい」

 日焼けした顔を酒でさらに真っ赤にした一同から感嘆の声が漏れる。
 武士を自認する彼らにとって、腕が立つということはそれだけで敬意を払われるに値する存在なのである。

「でもなぁ、まぁあれだぞ。いくら腕が立つといっても師というものは、人格的にも優れてなきゃならんのだぞ、その…なんだ」

 横島、と隣の男が助け舟を出す。

「そう、そのヨカシマって奴は、あーっ…そういうところはダイジョウブなのか?」

「横島先生は立派な方でござるよ」

 呂律のまわらない酒臭い息に、名前を間違われたことに、そしてなにより師匠の人格が疑われたことにムッときたのか、目をつぶり椀の中身を掻きこみながら答える。
 そのシロの様子に男は安心したように頷く。

「そうか、ならいい。でも、いいか、女となれば見境なく飛び掛っていくような男には近づいちゃならんぞ」

「ブフォッ」

 まるでいつも見ているかのような指摘に、口の中を豪快に噴出し、咳き込むシロ。

「どうした?」

「い、いや…ゲホッゲホッ」

「そんなに掻き込むからだ、シロ坊は昔から食い意地張ってるからそうなるんだ」

 宴の席にドッと笑いが起こった。ごまかすように笑うシロにとって、幸いと言うべきか、彼女が師匠の女性に対する人格をまるっきり信用していないことに気づいた者はいなかった。
 武士であることを自認する人狼たちにとって、道に外れる行動はそれだけで唾棄されるべき存在なのである。



 夜も深まり、いつのまにやら宴の席では話し声より、鼾の数が多くなっている。
 こちらもいつのまに飲まされたのやら、シロも頬を赤く染めているが、酔いつぶれている様子は見られない。案外酒豪なのかもしれない。
 ふと顔を上げ、潰れる者が続出してからは、もっぱら皆の世話をしていた男に尋ねた。

「そういえば奥道場はどうなったでござるか?」

 奥道場。里の奥にあることからそう呼ばれてきた道場のことである。その名前の単純さゆえでもないだろうが里の者たちに親しまれ、数多くの人狼達がそこで研鑚を積み、武士としての自己を高めていった。
 シロも幼き日に父へ武士になると宣言して以来、そこで多くの時間を過ごしてきた。



”脇だ、脇!しっかりと脇を締めろ”

”こ、こうでござるか?”

”そう、そうじゃ。さすがワシの子、筋がいい”

”エヘヘ”

 ペシッ

”脇を緩めると、不意を突かれた一撃に対応できないと言っておろうが。まったくお前は誉められるとすぐ気を抜く”

”ウワァン、急に打ったぁ。父上のひきょうもの〜”

”泣くんじゃない。な、なんだお前ら、そんな目で見るな”

”ウワァァン”

”ち、父は卑怯者なんかではないぞ。ええい、泣き止め、泣き止まんか。お前、それでも武士の子か”



 湧き上がる記憶の中の自分に、じんわりと思い出し笑いがこみ上げる。だが、そんなシロを見る男の顔はどことなくぎこちない。シロが不思議そうに小首を傾げ、男が何故そんな表情をしているか話すように促す。男は一瞬の躊躇いの後、言い辛そうに口を開いた。

「あのな、シロ坊。その、奥道場はな……」
















 翌朝、シロは木々に止まった小鳥のさえずりに包まれた里の奥へと続く一本の道を歩いていた。
 シロはそこで当たり前といえば、あまりに当たり前すぎることを再認識していた。

 過ぎた時間は戻らないということを。

 秋になると雷爺さんの目を盗んでもいだ柿の木はなくなり、近所の友人と遊んだ空き地には家が建っていた。
 シロが里を出たのはたかだか数ヶ月前。それらの変化があったのはまだ里にいた頃。シロは変化があったことを知っていたし、その時にも軽い違和感を覚えていた。
 しかし、このときシロの胸中を過ぎっていたのは、小さな違和感ではなく喪失感。
 一つの一つの風景が思い出の中とは似て非なる世界。
 ひとつの出来事が、それまで見てきた世界の姿を変えてしまうということは、世の中に少なくない。

 犬塚シロにとってそれは、奥道場の取り壊しであった。









 そこには畑が広がっていた。

 白菜が植えられていた。大根が生えていた。
 道場があったはずの場所に、修練の場であったはずの場所に。
 道を間違えて別の場所に来てしまったのではないかと、来た道を振り返ってみる。
 しかし、そこは確かに見覚えのある道。
 ここは、この畑は、たしかに道場のあった場所だった。

 元々古く、地震でとうとう崩れて使い物にならなくなっていた奥道場を、先月取り壊し、その跡地を畑として使っている。

 言葉にしてみればただそれだけのこと。
 その作業自体も里の若いもの達の手によってさして日数をかけずに終わった。
 別に大げさなことがあった訳ではない。ほんのすこしの手間がかかっただけのこと。それでも、シロの目の前には道場ではなく畑が広がっている。それは目を閉じようと、明日になろうとも、明後日になろうと変わらない。変わりようが無い。

 里には里の生活があるということぐらい知っている。そんなことが分からないほどシロは子供ではない。
 だからといって仕方が無いの一言で済ませられるほど成熟してもいない。

 その地震を発端とする事件をきっかけに、同僚である氷室キヌが生き返ったということをシロは知らないし、知ったところでその喪失感はなんら変わらなかったであろう。

 涙は出てこなかった。涙を誘うきっかけになる様な名残りは、何一つとして残っていなかったから。

 ただその場に立ち尽くし、自分の中の一つの時期がすでに終わってしまっていたことをはっきりと悟っていた。






 温かい思い出を持っている者は幸せだろうか?

 時間は絶えず流れていき、思い出の在った場所もそのままではいてくれない。













 家に戻ってから、道場跡を見てきたことは誰にも言わなかった。いま、自分が何かを言えば気を使わせるだけと考えたからだ。

 その晩も宴会が開かれたが、さすがに前日の宴会より早く終わり、シロも早めに床に就いた。
 そこで、ふと考えた。

 ”拙者は薄情なんでござろうか?”と

 自分の心の中を、皆に悟らせないようにするには労力がいったが、その晩の宴会でシロは笑いもしたし、食欲もあった。
 奥道場が畑に化けていたのを見たばかりだというのに。

 ふむと、小さく息をつき寝返りを打つ。

 考えては見たが、はっきりとした答えは見つかりそうになかった。
 こうして寝ようとしている今も、道場が建っていた場所が畑になってしまったことを思い出すと、胸が重くなる。
 でも、心がそれだけに縛られているかといえば、そうではない。

 結局よくわからない。
 よくわからないが、たぶんこうして過ごしている今も、ずっと先には思い出となり、記憶の中だけに足跡を残して消えていくのだろう。もしかしたら記憶の中にすら残らないかもしれない。
 それでも、だからこそ、シロは自分が覚えていることは、とても大事なものだと思った。
 もう一度寝返りを打ちシロは、一つ一つ覚えていることを思い出すことにした。
 それが何になるかわからないが、なによりそうしたいと思ったから。







 温かい思い出を持っている者は幸せだろうか?


終わり