「まー、なんにしてもこんなつまらんもん描いてないで、少しは私らと外で遊び!」

 少女はノートを閉じ返すついでに、同い年の親戚、三千院ナギの頭をポンポンと軽く頭を叩いた。
 自分の書いた漫画を理解してもらおうと、必死に説明を続けていたナギが口をつぐんだことを潮に、グラスの触れ合う音、談笑、奏でられるオーケストラ――華やかなパーティの音に満たされた大広間を、愛沢咲夜は移動していく。
三千院紫子の退院を祝って開かれたパーティ。
 主役である紫子は退院したとはいえ未だ体調が万全でないため早目に退場してしまったが、賑やかなことが大好きな本人の希望もあって、続けられていた。
 退院パーティということで、パーティは喜びに満ちた雰囲気で行われていたが、中でも三千院家当主・三千院帝の喜びようはひとしおで、常には見せない酩酊した姿を参列者にさらす程に、紫子の退院を喜んでいた。

 咲夜も紫子の退院を喜んでいた。退院記念パーティの話を聞いた時は、付いてくるなと言われても、無理にでも付いて行こうと決めていたぐらいである。
 柔らかく笑う紫子のことが咲夜は大好きだった。
 入院中、中々母親に会えず寂しい思いをしていたナギを連れて、二人だけで屋敷を抜け出して見舞いに行ったこともある。
 歩き疲れたナギが泣き出したり、財布を落として道に迷って二人で泣いたり、結局途中で見つかって、後でこっ酷く叱られたりもしたが、紫子に会わせてもらったときのナギの笑顔を考えれば、そんなことは安い代償であった。

 だが、そんな戦友、あるいは共犯者のナギの描いた漫画は、読む者に軽く頭痛を起さざるを得ない出来映えだった。
 絵もそうなのではあるが、描かれた物語やキャラクターも問題だった。
 ――ヘルニアちゃん、老人斬り。
 良く言えば想像力に溢れた、普通に言ってしまえば訳の分からない、悪く言ってしまえばこの世のものとは思えない、子供心にも到底受けとめられない電波な代物だった。
 ウェイターから貰ったジュースを飲んでいると、ノートをゴミ箱に捨てる音がした。
 ノートを投げ捨てたナギは、まだ不機嫌な表情のまま涙目で俯いている。
 本気で落ちこんでいる。ナギの様子にそう気づけば、さすがの咲夜も気が咎めた。
 ――まっ、ウチも言いすぎたかもしれんしな。
 咲夜はしゃあないなと溜め息をつき、おねーちゃんとして慰めの言葉をかけてようとナギに近づこうとした。
 が、その瞬間、ナギが顔を上げ猛然と歩き出した。
 小さな足が向かう先にいたのは、どこか浮世離れした一人の少女。
 背格好からすると、年は咲夜やナギと同じぐらい。和服と長い綺麗な黒髪、そして感情の薄そうな表情がどこか人形のようであった。
 その人形のような少女は、ナギが捨てたはずの漫画ノートを拾いあげ読んでいる。
 電波で塗り固められたような、あの漫画。
 さっきのやりとりを見ていたのなら、そして余程の物好きでなければ面白い物でないことは明白で、それでも読もうとするなら目的は書いた人間を笑い者にするぐらいしかない。

「返せ!」

 からかわれている――そう思ったのだろう。怒ったナギが少女からノートをひったくるように取り返し、怒鳴った。
 ナギに怒鳴られ一瞬だけキョトンとした表情を浮かべた後、少女はゆっくりと頬を緩ませ、何か呟いた。

「へ?」

 嘲笑ではない、微笑。
 ナギ、そして二人のやりとりを見ていた咲夜も戸惑った。
 あの漫画が面白いとでも言うのだろうか?
 ナギが二言、三言、何かを確かめるように質問を重ねた後、少女の手をしっかりと握った。
 やげて、笑い出し、喋りだした二人を、咲夜はぼんやりと見つめていた。胸の中に溜まっていく澱のようにモヤモヤとした感情が溜まっていく。それを、振り払うように飲んだジュースは、氷が溶けてすっかり薄くなってしまっていた。 





 パーティも終わって、咲夜は三千院家の屋敷に泊っていくことになった。
 親戚同士、くわえてナギと咲夜が同い年であることもあり、三千院家に泊まることは、愛沢家にとっては、いつも通りのこと。そして、三千院家に泊まるとなれば、咲夜は子供同士ナギと一緒に寝るのも、いつも通りのことだった。
 ――そう、これはいつものことやもん。別にナギがあの子と仲良くしてるのが気になってるからなんかや、
 ないのだ、そう自分に言い聞かせて、咲夜は大きめの枕を両手に抱えて、ナギの部屋へと足を動かす。
 そのナギはちょうど寝室の前にいた。その隣には先ほどの黒髪の少女もいる。
 二人の手には、なにやら習字に使う墨やら、筆やら半紙やらが握られていた。
 一つ呼吸をすると、咲夜は努めて明るくナギに声を掛けやた。

「おお、ナギ。一緒に寝たろか?」

「いいもん。伊澄と二人で寝るから」

 二人で、と言う言葉を聞いた瞬間、咲夜は鼻の奥がツンと熱くなるような感覚を覚えた。
 ナギは咲夜を無視するかのようにプイッと顔を背け、伊澄の手を握った。
 伊澄と呼ばれた少女は、ナギの顔とオロオロと走り去る咲夜の背中を交互に見ている。二人が喧嘩していることへの困り顔で「喧嘩しないで」と小声で呟いている。
 ――あっ、いい子なんや。
 目の前にいるのは、二人が喧嘩していることを心配できる優しい子。
 そうわかった瞬間、自分がこの場所にいることが、ひどく辛くなった。
 漫画を酷評されたことをまだ怒っているらしく、顔を背けたナギが咲夜の表情に気付いた様子はない。
 
「……そか、おやすみ」

 小さくそれだけ言うと、咲夜は走り去ってしまった。





 寝室に戻ってから、考え事をしながらぼんやりと見ていたのは、窓の外に広がる普段とは少しだけ違う、鬱蒼とした庭に広がる森だった。
 普段は、使わない(あてがわれてもナギの部屋で寝てしまうから)名目だけの寝室からの景色など、見慣れているはずも無い。
 自分の気持ちがよくわからない。
 ナギに友達を作るように言っていたのは自分だ。事実、他人とあまり話そうとしないナギのことをいつも心配もしていた。
 今夜、ナギに友達ができた。その友達は優しい子だ。感情表現は下手だけど、きっと優しい、いい子だ。なんの問題もない。

「なら、それでいいやん」
 
 誰もいないベッドで一人声に出してみる。当然、返事は無い。呟いてみても胸の中の、幼い咲夜には言葉にできない感情は治まらない。
 考えるのが面倒になってしまい、思考を打ちきるように勢い良く布団を被り、目を閉じた。
 
 その夜、咲夜は中々寝つけなかった。









 翌朝。
 起床し、朝食会場へと向かうと、昨夜のパーティ疲れか、咲夜の父も帝もおらず、紫子とメイドが何人かいるだけだった。
 ナギと伊澄がいないことに少しだけホッとはしたものの、そう思った自分に、またイヤな感情が湧いてくる。

「おはよう、咲夜ちゃん」

 そんな胸中を知ってか知らずか、紫子が咲夜が席に着くのを待ってから、朝の挨拶を口にする。
 なんとか笑おうと努力して、咲夜も挨拶の言葉を返す。

「おはよう。紫子おばちゃん」

「あら、ナギは?」

「知らん」

 目を瞑り、短く答え、メイドが注いでくれたホットミルクを口に運ぶ。

「ナギと一緒に寝てくれたの咲夜ちゃんじゃなかったの?」

「ナギは、伊澄って子と一緒にいるほうがいいんやて。ウチも別にナギのことなんて――」

 首を横に振りながらの言葉は、途中で途切れた。
 こんな言葉なんか口にしたくなかった。けれども、口にしないことも難しかった。そんな感情を抱いてしまう自分が情けなかった。

「ありがとう」

 立ちあがり、咲夜の側まで近付いてきた紫子の口から出たのは、意外な言葉だった。

「ありがとうって……なんで?」

「ナギのこと、好きでいてくれてるんでしょう?」

「……ウ、ウチはその別に」

 紫子の質問に、途中で詰まった言葉とは逆に、咲夜はようやく胸の中のモヤモヤの原因に気付いた。

 ――ああ、そうやったんや

 簡単なことだった。
 なぜなら――自分は、普段は無愛想で、引篭もりがちで、人見知りで、なのに笑うとまるで向日葵みたいな笑顔を見せる――ナギのことが好きなのだ。
 だからナギが他の子と仲良くしているのが、ナギが取られてしまうようでイヤだったんだ、と。

「あの子はわがままで自分勝手で、そのくせ寂しがり屋で泣き虫で、色々大変だろうけど、仲良くしてあげてね」

「……ウチでいいの?」

「咲夜ちゃんだから、お願いするの。咲夜ちゃん、しっかりしてるし、明るいもの」

「うん……ありがと」

 紫子が、コクリと頷いた咲夜を、そっと抱いた。
 温かい匂いに包まれて、咲夜は、ほめられたこと、頼りにして貰えたこと、そして見上げた紫子が大好きな柔らかい笑顔だったことが、嬉しくて嬉しくて、また泣きたくなった。

「ありがとう」

 紫子は、そう言ってまた柔らかく笑った。

 しばらくすると、廊下から大きな高い話し声が聞こえてきた。ナギの声だ。

「でなっ、ショウガ提督の策略によって海は酸っぱくなるんだ。そこから湧き出すのが、海獣・ガリだぞ。ガリの大群によって、砂浜はピンク色に染まってしまうんだ」

 ハラハラドキドキといった表情で伊澄が聞き返す。

「そっ、それで? どうなるの?」

「ああ。もちろん、アガリ公国陣営も黙っていない。エンガワ少尉とバロン・ヅケ、ああ、バロン・ヅケの正体はもちろん、シャリ公爵の策略に嵌って没落したセウユ家を立てなおすために手柄を求める八代目当主のムラサキ男爵だぞ。二人の獅子奮迅の活躍で、海獣・ガリは殲滅させられるのだが、アガリ公国の軍勢も大ダメージを受けてしまった。両者、消耗しきったところに現われたのが、第二黒太陽、別名・裏黒太陽だな、そこから絶対創造主様が――」

 身振り手振りで捲くし立てるナギに、興奮に軽く頬を染めて頷く伊澄。二人の少女の間には、確かな友情と、そして相互理解が成立していた。
 

「……ナギのことお願いね、咲夜ちゃん」

「……うん」

 もう一度、咲夜は頷いた。