人間、眠っているところを無理矢理起こされること以上に嫌なことは少ない。
 それが深夜のアルバイト後の深〜い深〜い眠りについていたところなら、なおさら不愉快なことであろう。
 そんなわけで横島忠夫はドアを叩き、自分を眠りの園から追い出した人間(彼の部屋には人外の存在もしばしば訪ねてきたが)を追い払うつもりでいた。

 ――たく、新聞の勧誘かなんかか?
 片手でアクビを抑えながらドアに向かう。ドアノブに手を伸ばそうとしたその瞬間だった。

「タダオ〜?いるんでしょ〜?」

 伸ばしかけた腕がぴたりと止まった。
 なぜこの勧誘員は自分の名前を呼んでいるのか?
 新手の勧誘方法か何かなのか? もしかしたら詐欺なのか?
 ここ最近のニュースでそんな話があったかどうか思い出そうとするが、起きてすぐのせいか頭がうまく回らない。そもそもここ最近ニュースを見たかのさえ思い当たらない。
 腕を組み貧弱な思考力と睡魔の残党が格闘させていると、二度目の声がした。

「タダオ〜?いないの〜?」

 聞き覚えのある声に再び体全体(今度は心臓も一瞬)がピタリと止まり、同時に睡魔の残党もいそいそと撤退していった。
 ――まさか、日本にいるはず無いよな?
 そうさ聞き間違いに決まってる、聞き間違いに。ほらっ、三度目の正直って言うしな!
 ほとんど悪足掻きと言える態度で、三度目の呼びかけを待つことにした。


「タダオ〜?」


 それまでと同じ声。三回目の呼びかけとあって、さすがに声も大きくなっている。
 そのタダオは思わず玄関から後ずさっていた。
 確定である。ナルニアに単身赴任となった父親についていっているはずの母親の声である。
 横島の脳みそは一瞬の停止の直後、混乱をきたした。

 ――なんで、どうしておふくろがここに?いや、いまはそんなことはどうでもいい。とにかくこの急場をしのがなければっ!
 どうする、どうするっ。
 そうだっ、ここは居留守を使ってとりあえず時間を。

 なんら問題の解決にはならないものではあったが、とにかく自分の今後の行動の指針を固めると、両手で耳を塞ぎ目を閉じしゃがみこんだ。


 それから10分

 すでにドアを叩く音も自分の名を呼ぶ声も止んでいた。
 もう大丈夫だろうと思い(それでも念のためこっそりと)鍵を開け、ドアから顔をだし辺りを見回す。

「右よし、左よ……くない」
「な〜んだ、やっぱりいたんじゃない」

 そこにはニコリと本当にニコリと笑った母親の顔。

「てっきりいないのかと思ったけど、まさか居留守使おうなんて思ってたわけじゃないわよね?」
「イエ、ソンナコトハ」

 瞬間、修羅のように表情を変えた母親の問いにギクシャクと首を振る横島。

「とりあえず中入れてもらえるかしら?」
「……ハイ」
「最初からそれくらい素直にすればいいのに」

 再び笑顔を浮かべ、自分の肩を軽く叩く母親に、引きつった笑顔を浮かべるしかない横島であった。

 

 

 百合子の視線が部屋をひとまわりした。

「相変わらず汚い部屋ねぇ」

 息子の浅知恵を見破り部屋に入ることに成功した百合子は、いまは万年床をどかしたスペースに座り、狭く汚れた部屋に対して感想を述べている。
 その息子は、自分と母親のためのインスタントコーヒーを準備していた。

「それでも思ったよりきれいなのはおキヌちゃんだっけ?あの子が片付けに来てくれるからかしら」

 全部お見通し。母親の勘のよさに呆れる。

「あらあら、こんな本を年頃の女の子に片付けさせたわけ」

 さすが母親の勘と言うべきか、目ざとくテレビの脇に積まれてあった本を発見していた。

「ほっとけ。で、今日は何の用だよ」

 あわてて百合子がパラパラとめくる他人に見せるには憚られる本を取り上げる。

「久しぶりに会った母親と会話を楽しもうって気はないの、っとに。じゃ要点だけ言うわね。父さんとは別れるわ、母さんと一緒に暮らしましょう」

 ただ事ではないことをさらっと口にした。
 母親はそうでも息子としては、例えそれが母親が突如現れたときから半ば予期していた展開であっても、ああ、そうですか、と流すわけにはいかない。

「……なんで?」

 コーヒーカップを差し出しながら、一応問う。

「聞きたい?」

 母親から説明された理由は、あの父親の性格とこの母親の行動力を考えればそれしかないというものであった。
 つまりは、あの馬鹿親父が浮気したと。
 ”またか”と横島は頭を抱えこまざるを得ない。
 しかし、それにしても母親の要求を黙って受け入れるわけにはいけない。
 母親は強敵である。だが何かと苦労は多いが、小言を言われない自由な一人暮らしの権利は自分自身で守らなくてはいけない。冷め始めたコーヒーを飲み干すと、横島は決意を固めた。
 そう、ここで俺が譲ってしまっては自由と人権を求めて戦った先人たちに申し訳がたたん!
 第一、ニューヨークなんかに行った日には美神さんのシャワーシーンやらなんやらに立ち会う機会が完全に消滅してしまうやないか!
 自由と人権を求めた先人たちが聞いたら呆れそうな動機ではあるものの、横島はさっそく抵抗を開始した。

「でも高校のこともあるし、いまさらニューヨークなんかにはいかんぞ」
「大丈夫、今度はクロサキ君にしっかりと根まわし頼んどいたから、日本で働けるし転校しないですむわよ」

 ――ああカウンターパンチをもらったボクサーってこんな気持ちなのか。
 即答と言っていい速さの母親の答えに心の中で頭を抱えた。
 母親の辣腕ぶりは前回の件でなんとなくは知っていたものの、依然として彼の頭の中の母親像からはいまだ特売の好きな普通の主婦というイメージが抜けきっていない。

「さてとっ、とりあえず美神さんに挨拶にいくわよ、準備しなさい」

 百合子はコーヒーカップを空にし、立ち上がった。

「イ、イヤヤ〜、オレの自由気ままな一人暮らしが〜」

 本音百パーセントの悲鳴を残しながらも、息子は母親に引きずられていくこととなった。
 横島忠夫の自由と人権を守るための闘争は幕も上がらないうちに終了した。

 

 

 

 

 ところかわって、ここは美神除霊事務所。

 コーヒーの香りに包まれた事務所内には、ここの所長である美神令子、その母親・美智恵と妹・ひのめ、そしてここに住んでいる氷室キヌの4人がいた。
 しかし紅茶の香りの上から沈黙という上着を重ね着しているのか、その場の空気を揺らす音といえば紅茶をすする音、カップをソーサーに戻す音くらいである。
 令子はすでに半分ほどにまで中身の減ったカップを持ち上げ、視線をカップから母親に移した。美智恵の表情は特別感情らしきものを表してはいないものの、自分を見る視線には明らかに穏やかではないものが混ざっていた。
 ――こんなことになるなら、二日酔いだからって除霊キャンセルするんじゃなかった。
 内心で舌打ちしていると、美智恵の声が場の沈黙を破った。

「令子、あんたママになにか隠してることがあるんじゃないの?」

「なんのことかしら?」

 令子がソーサーに戻したカップが、不自然に高い音をたてた。
 反対に、カップを持ち上げ美智恵が口を開く。

「例えば、そうね。税金のこととか?」

 横で見ていたキヌがごくりと唾を飲んだ。

「働いた量に比べると納めた税金が少ないんじゃないかな〜と思って」
「今は不景気だもの。依頼者の支払いも渋いのよ」

 もう体勢を建て直し、困ったものだわと言いたげな笑顔を浮かべる。母親はそんな令子に深いため息をついている。
 令子はバツが悪そうにこう続ける。

「税金ならちゃんと納めてるわよ」
「本当に?」
「もちろん」
「「…………」」

 数秒の間、じっと令子を見据えたあと、ふと視線を天井に移す。
 その動作に訝しげな表情を浮かべる令子とおキヌを他所に、美智恵はこの館の一風変わった管理人に声をかけた。

「人口幽霊一号?」
『はい?』
「あなた戦後のドサクサに紛れて建てられたんですってね?」
『……そうですが?』
「ふーん。登録関係とか調べたら、いろいろ面白いでしょうね?」
『暖炉の中です』
「そっ、ありがとう。」

 そう答え、暖炉に近づいていく美智恵の背中に、おキヌは自分の雇用者よりその母親のほうが一枚上手であることを思い知った。
 美智恵は懐から取り出した神通棍をのばし、暖炉の中の灰を掻き分けていく。灰の中からはビニール袋に包まれた書類がでてきた。

「あら〜、ずいぶん面白いところに書類しまってるのね」

 人口幽霊一号は自らの管理の及ばないところで室温がまた何度か下がったような気がした。
 先ほどよりはるかに気まずい沈黙。その数瞬の沈黙を破ったのは美智恵の笑い声だった。

「フフッ、ウフフフフッ、ハハッ」

 呆然としていたもののつられて令子も笑い出す。

「アハハハハッ」
「アッハッハッハ」

 ダンッ

 美智恵はテーブルを両手で勢いよく叩いた。一瞬、いくつかのティーカップがわずかに動き、カチャリと音をたてる、と、同時に、二人の女性の異様な笑い声が、ぴたりと止まった。
 おキヌもなんとかとりなそうとするものの言葉が出ない。
 次の瞬間、部屋に響いたのは、さきほどよりも長く力の抜けた溜め息だった。

「な、なによそのため息は」
「小さいときはあんなにかわいかったのに……ひのめ、あなたはこんなケチでお金に汚い大人になっちゃだめよ」

 ひのめは「だぁ?」と首をかしげるばかりである。
 令子が何か反論しようとしたときドアが開いた。ひのめを含む4人の視線が一斉にドアに向かう。
 入室してきた人間の顔を確認したとき、おキヌは思わず首を横にふった。この人は、いつものことながらなんと間の悪い人なんだろうと。
 反対に令子は間の悪いアルバイトの登場にこの場を切り抜けるチャンスを見出そうとしていた。
 そして、その間の悪いアルバイトは部屋の張り詰めた空気に、今日の自分の運勢を呪った。

「あらぁ、どうしたの横島君」

 ただならぬ気配の元となっている美智恵の笑顔に、ただならぬものを感じた横島は踵を返し逃亡しようとした。

「えっと、すいません部屋間違えました」

 ガシッ
 いつのまに近づいたのかそこには令子。
 肩に手、万力のような力、そして笑顔には似合わない鬼も射殺さんばかりの視線。

「そういえば大事な話があるって言ってたわよね、そうよね?」

 さすがに、なければ作れ、とまでは言わなかったものの、それに近い勢いで横島に問う。
 それを聞いて怯えていた横島の表情が”えっ?”というものに変わる。

「いや、まぁ、あるといえばありますけど」
「へっ?」

 それを望んではいたものの、さすがに実現するとは思っていなかった令子の表情も横島とよく似たものに変わる。
 互いにあっけにとられた顔をしている二人に、美智恵の冷たい視線が突き刺さる。

「それで話っていうのは? 私は一旦外にでた方がいいかしら?」

 令子を睨んだまま、一旦という部分を強調して美智恵が横島に用件を促す。

「あ、ああそれなんですけど」

 言いかけたところで再びドアが開いた。そこから出てきたのは令子にとっては見慣れない、しかし知っている顔、横島百合子であった。

「どーも、美神さんお久しぶりです、いつもウチの忠夫がご迷惑を」

 といって息子の頭を押さえつけ、下げさせる。

「あら、お母さまどうして?」

 その顔には先ほどと同じくらいの驚きの表情が浮かんでいる。

「これからは日本で生活することになったので挨拶をと……」

 ここまで言ったところで、美神の後ろに立っていた美智恵に気づく。

「あら、そちらの方は?」

 挨拶をするタイミングを計っていた美智恵は、これ幸いと頭を下げる。

「令子の母でございます、息子さんには娘がいつもお世話になってます」
「いえ、こちらこそ……」

 百合子も頭を下げ挨拶をしかけたところで、何か気づいたように口に手を当てる。      

「あの、失礼かもしれませんがどこかでお会いしませんでした?」
「えっ?」

 思いがけない問いかけに一瞬戸惑ったものの、すぐ思い出し、少し驚いたあと表情を明るくした。

「ほら結婚式場で」

 こちらも口に手を当て、普段よりも声を高くした。

「あのときの!?」
「そうです、そうです」

 手を握り合い思い出話を始めた母二人に、子二人は目を白黒させている。そんな二人にキヌは二人の母親の関係をたずねる。もちろん全く事情のわからない二人は同時に首を横に振った。


「どういうこと?」
「さぁ?」

 

 

 

 

 

 それは18年前のお話


 とある結婚式場のとある一室。その室内にはゆったりとしたクラシック音楽が流れている。床に敷かれたじゅうたんの色は赤。そこで、二つの人影がなにやら話をしている。
 そのうちのウェディングドレスに身を包んだ女性が、目の前で資料用の写真をとるためにカメラを構えている女性に尋ねた。

「どうかしら?」
「お綺麗ですよ」
「そう?」

 目をカメラから外し、笑顔を浮かべ答える。

「ええ、とっても」

 向かって右側にある鏡に映された自分の姿を眺める。”まっ、悪くないわね”と満更でもなさそうに頷くと顔だけを向きなおす。

「じゃあ、主じ……大樹さんを呼んで来てもらえますか?」

 一ヶ月後に結婚する相手のことを、主人と呼ぶのはまだ照れがあるのか名前で言いなおす。

「いえ、こっちから行って驚かせてあげましょう」

 カメラをケースにしまいながらイタズラっぽく笑う。百合子は、一瞬キョトンとした表情を浮かべた後、

「そうですね」

 こちらもニコッといたずらな笑顔を返し、共犯関係を結んだ。


 二人は、軽いイタズラの高揚感を抑えるかのように、聞こえるはずのない足音を抑えながら大樹の待つ部屋へと移動していく。
 ドアの前、深呼吸を一つ。そこで待っているはずの夫は自分の姿を見てなんというだろう?どんな顔をするだろう?
 そして開かれるドア。

「大樹さん、どうかし、ら?」

 しかし、少しの不安と大きな期待がないまぜになっていた百合子を室内に広がる光景が絶句させた。
 彼女の視界には、こちらも結婚式に着る白いタキシードを試着した大樹が映っている。
 その隣には青い制服を着た女性が座っている。夫の好みそうなタイプである。
 そこまではいい、そんなことでへそを曲げるぐらいならば大樹と結婚するなど到底無理である。
 しかし目の前の状況は、結婚式の衣装合わせに来た人間が、見知らぬ女性の手を握り、さらにはその女性の頬が赤く染まっているという有様であった。

 ギッ ギリギリッ

 その歯軋りの音に、百合子が部屋に入ってきた瞬間から固まっていた笑顔が、徐々に引きつっていく。同時に手を握られていた女性の視線の温度も急激に下がっていく。

「いや、これはその、ねぇ? アハハハ」

 ごまかし笑いを浮かべた大樹の視線が、百合子に同行してきたカメラを持った女性がそそくさと逃げていくのが見えた。自分も彼女の立場ならそうしただろうが、それでも逃げないでフォローしてくれと自分勝手な考えを浮かべずにはいられない。
 百合子の長いため息のあと、感情のこもっていない笑顔を浮かべこう言った。

「とりあえず今日は帰るわ。あとのことは明日話し合いましょう、じっくりと」
「あ、後のことって?」
「ここまで準備してきたんですもの。いろんな人の手前ただ結婚しませんってわけにはいかないでしょう?」

 わざとらしく首をかしげながらそういい残し、部屋を出るため背を向ける。

「ゆ、百合子さん!?」

 あわてて握っていた手を離し、百合子のほうに駆け寄り、百合子の肩に手をかける。その肩は小刻みに震えていた。
 ――あっ、怒ってる。
 今更といえば今更な感想ではあるが、激怒とか憤怒とかの言葉を一回りして、そう単純に表現しなければならないほどその怒りは深いと大樹は感じた。

「……るな」
「へ?」

 呻き声のような百合子の声に大樹の動きが止まった。もう一度同じ言葉を繰り返した。今度は叫び声だった。

「触るな言うとるやろがっ」

 ガギャアッッ
 振り向きざまの右アッパー、魅惑の打撃音、そして大樹自身が描く芸術的な放物線。
 後年、彼の息子もそれにそっくりな何かを表現することになるが、それはまた別のお話。
 何度か縦に転がり壁に激突し、ようやく止まった。百合子は言葉にならない呻き声をあげている大樹を一瞥しフンッと鼻を鳴らすと、部屋に入ってきたときは正反対の荒い歩調で部屋を出ていった。

 

 

 

 


 同じビルの違う一室。並んでいるデスクの存在が、そこをオフィスであることを証明している。
 その室内の片隅、低いテーブルを挟むように置いてあるソファーに三人の人間が座っている。一人は青い制服を着たOL、その反対側に若い女性、そしてその娘と思しき幼女が座っている。
 若い女性が、なにかの書類を頷きながら目を通していく。

「なるほど、式当日に新婦に逃げられて自殺したと」

 典型的な自縛霊ね、と心の中で付け加えた。
 もう一度軽く頷き書類を返す。

「わかりました、これから除霊しますので誰も近づかないようにしてくださいね。さてと」

 隣で絵本を読んでいた娘の顔を見る。

「あっ、れーこちゃんならこちらで預かっておきますよ」
「そうですか? じゃあお願いします」

 礼を言うとかがみ、れーこの顔に目線を合わせる。キョトンとこちらを見るれーこの頭を思わず撫でくりまわしたくなるが、それをかろうじて抑える。

「ママこれからお仕事に行ってくるから、いい子で待っててね」
「やー」

 笑顔で首を横に振る。

「すぐ終わるから」
「やー」

 今度は頬を膨らませて。

「だから「やー、いやー」」

 ついには泣き出した。
 ――教育上は良くはないんだけど。ああっ、でも泣いてる姿もかわいいわ。
 そんなことを考えながら、財布の中から五百円玉を取り出すと部屋の隅のほうヒョイと放った。
 チャリンという音に耳を大きし振り向く。トテトテと近づいていき拾い上げる。

「ママ、こえ貰って……ママ?」

 母親の姿はそこにはなかった。

「ママー?」

 慌てて母親を探そうと室外に出かけたれーこの体がふわりと持ち上がった。
 思わず振り返った幼女の目に映ったのは子供好きなOLの笑顔だった。

「れーこちゃんはここでお姉さんと遊びましょうね♪」

 あまりに嬉しそうなその笑顔に気圧され、れーこはこくりと頷くしかなかった。

 

 そのままれーこは、これぞ至福といった表情で絵本を読むOLに抱きかかえられていた。顔はおいて行かれた事に腹を立てているのを隠そうともせず膨れっ面。

「お爺さんとお婆さんは仲良く暮らしました。めでたし、めでたし」

 絵本を一冊読み終わり、さすがに彼女も自分の膝の上の幼女のブスッとした表情に気づく。

「ね、ねえ、れーこちゃん、ジュース飲む?」
「いやない」
「そ、そう」

 こっちの顔を見ずに顔を横に振る幼女に困ったように笑う。
 少しの沈黙のあと、彼女の困惑を察したのか、あるいは飲みたくなったのか

「やっぱり、いゆ」

 と言った。

「ちょ、ちょっと待っててね」

 パッと顔を明るくし軽い足取りで、れーこに背を向け給湯室に入る。冷蔵庫から
 ジュースを取り出しコップに注ぐ。やっぱり子供。でも、そこがかわいいわと嬉しそうに微笑む。

「れーこちゃん、オレンジでよかっ……た?」

 そこで彼女の微笑は凍りついた。ソファーに座っていたはずのれーこは忽然とそこから姿を消していた。オレンジジュースを注いだコップをテーブルに置く。水滴が跳ねたことも気にせず廊下に飛び出した。

「れーこちゃん〜、どこ〜?れ〜こちゃ〜ん? 子供だもの、そう遠くには行ってないはずよね」

 自分に言い聞かせるように呟き、再び声をあげながら探していく。
 彼女の言ったとおり、れーこは遠くには行っていなかった。いや、それどころかその場から、ほとんど移動すらしていなかった。
 探す声が遠ざかっていくのを確認したかのように、小さな影がデスクの下から出てきた。亜麻色の髪がニコリと笑った。

 

 

 


「さて、と」

 悪霊が出ると説明された部屋の前で美智恵は、いたって軽装ではあるが除霊の準備を整えていた。ドアを少し開け、中の様子を伺う。

『オレノナニガワルカッタンヤー』

 恨み、嫉み、コンプレックスに満ちたくぐもった声で同じ台詞を繰り返す、かろうじて人の形を保っている霊体が部屋の真ん中に陣取っている。
 ――自我を無くした怨念のみね。まっ、そのほうが遠慮なく除霊できるわ。
 右手に神通棍、左手にお札を三枚構え、部屋に突入する。

「わたしは美神、GS美神よ! 力ずくで除霊されたくないのならさっさと自分で成仏しなさい!」

 美智恵の霊力が篭った呼びかけに、悪霊の動きが一瞬止まるがすぐに元に戻る。

「聞く耳持たないってわけね」

 しょうがないとつぶやきながらも、言葉とは裏腹に、顔はどこか活き活きとすらしている。
 美智恵が構えたことに気づき突っ込んでくる悪霊。左にステップを踏みすれ違いざまに神通棍、そして札を叩きつける。

「どう?」

 とは言いつつも、自分の手ごたえからまだ不十分ということはわかっていた。
 再び身構えようとしたそのとき、どす黒い光が美智恵の視界を覆った。

「いっ?」

 霊波だった。次の瞬間、瓦礫と埃、そして建物全体にすら響きそうな程の爆音がその部屋を覆っていた。

 

 

 

「なにも叩くことないやないか」

 鏡の前で大樹は両頬を抑えた。片方には婚約者の拳の後が、もう片方には先ほどまで口説き落とそうとしていた、いや口説き落としかけていた女性に紅葉を貼り付けられていた。

「しかし、これは相当覚悟して謝らんと許してもらえんな」

 頭を抱えこみ震える大樹――それは常日頃の、良くも悪くも活力に満ちた彼を知る者なら信じられない様子だった。
 落とそうと思えば大抵の女性を落とせる(事実落としてきた)大樹が、別れることは欠片も考えず、なんとかプライドを捨ててまでも許してもらおうとする―――それは彼が彼なりに百合子に惚れている証拠でもあった。が、もちろんそれは彼なりに、であり他者からは『そんなに惚れているなら最初からそんなことしなければいいのに』という疑問をぶつけられるだろう。そう問われたところで、本人に言わせれば美人を口説かないのは犯罪だとでも言い出しかねないのが横島大樹という男なのではあるが。
作戦をああでもないこうでもないと考えていると、突如として爆音が響いた。

「な、なんだ?」

 あわてて部屋を飛び出る。音は上の階からしたようだ。ある思いが頭をよぎった瞬間、彼は空気をも蹴らんばかりの勢いで駆け出していた。

 ――百合子さんが巻き込まれてたら。

 その可能性は低いことを理性は理解していたが、感情がそれを否定する。それを鎮めるためには、直接自分の目で百合子の安全を確認しなければならないことを、感情次いで理性も認めた。
 途中すれ違った人に聞いてはみたが状況ははっきりしない。そのことがますます大樹をあせらせていく。
 階段の前に置かれていた『関係者以外立ち入り禁止』の立て札が目に入る。

「こんなもん知るか」

 立て札を強く横に蹴り飛ばし、上の階へと二段飛ばしで階段を駆けていった。

 

 

 

 

 その少し前。
 百合子は着替えず憮然とした顔で鏡に映る自分をにらみつけていた。
 ――これからどうしようかしら、えーと式場その他のキャンセル料はもちろんあのバカに持たせる。親と仲人さんにも挨拶にいかなきゃ。親にはまぁ各々言うとして、仲人さんには二人そろって挨拶しないとだめよね。
 ああ面倒くさい。
 だいたい私なんであんなのと結婚しようなんて血迷っちゃったのかしら。
 だめだ、やっぱりもう一回ぶん殴ってこよう。
 そう思い立ち腰を上げかけた瞬間、鼓膜を強く刺激する爆音が建物の中に響いた。
 百合子は咄嗟にこう呟いていた。

「大丈夫よね?」

 再び椅子に腰を下ろす。組まれた足が小刻みに、そして不安気に上下する。

 「……ったく、しょうがないわね」

 百合子は再び腰を上げ、部屋をでた。

 

 


 部屋を出てしばらくすると、幼女が歩いているのが見えた。
 可愛らしい顔立ちの少女。よく見ると瞳は涙目になっていた。

「どうしたの?」

 放ってはおけずしゃがみ尋ねる。
 幼女は、一人で心細かったのか「ママが、ママが」と繰り返すばかりである。

「そっか、ママと逸れちゃったのね」

 おおむね事情を察した百合子は、放ってはおけず、幼女に近づくと手をキュっと握った。

「お姉ちゃんもね、人を探してるの。一緒に探しましょ」

 幼女は百合子の顔を少しの間みつめた後、コクリとうなずいた。

「うん、おばちゃん」

 つながれた手の一方の握力が微妙に上がった。

 

 

 


「ゲホッゲホッ」

 濛々とあたりを待っていた埃も治まり、ようやく視界を確保できるようになった室内を見回す。

「あららら、だいぶ派手にやっちゃったわね」

 他人事のように呟いた。振り向くと悪霊が先ほどの霊波が、最後の悪あがきだったのか、相当弱っているようであった。

「ったく、今度はしくじらないわよ」

 じりっと一歩近づく、悪霊はその分だけ後退する。

 近づく、離れる
 近づく、離れる

 それを繰り返したところで呼吸を合わせ、一気に飛び込もうと決めた瞬間、まったく知らない顔が部屋に飛び込んできた。

「ここか、百合子さんっ――アレ?」

 それはタキシードを着た男だった。
 ――誰も近づかないように頼んだじゃない。
 美智恵は心の中で軽く舌打ちをした。

「ちょっと危ないわよっ」

 美智恵が声をかけたのと同時に、男が着ていたタキシードに反応したのか、悪霊の動きが急に速くなった。

『オマエカ〜オマエガ〜マサエヲダマシタノカ〜コノオンナタラシガ〜』

 誤解と正解の混じった台詞を吐きながら大樹に飛び掛っていく。

「なっ?」

 あわてて悪霊と揉み合う大樹。その様子に驚く美智恵。

「あの人、霊と?」
『オマエガ〜オマエサエイナケレヴァ〜』

 訳が分からないといった様子で悪霊と揉み合っていた大樹の表情に激しいものが走った。

「おれにはかわいい嫁さんが待ってるんじゃぁ」

 大樹はそう叫び、半分崩れた悪霊の手を払いのけ、その顔に拳を叩きこんだ。

 

 

 

「ふーん、れーこちゃんって名前なの」
「うん、れーこね大人になったらママみたいな、ごーすとすぃーぱーになるんだ」
「へぇー、れーこちゃんママのこと好き?」
「うん、大好き」

 それはもう宝石のような笑顔で問いに答える。
 ――ああ、私もこんな子が欲しいな、あのバカ以外との間に。
 その『あのバカ』を探すために、安全とは言い切れない行為をしているのではあるが、百合子はそれに気づいていない、いや意識を向けようとはしていない。

「あっ」
「どうしたの?」

 れーこの視線とそれに従った百合子の視線に、赤い絨毯が埃で白くなった赤絨毯が映り、同時に二人の耳にこんな叫び声が聞こえた。

「おれにはかわいい嫁さんが待ってるんじゃぁ」

 

 

 

 


「な、殴った? ってそんな場合じゃないわね」

 自分の目の前の、およそGSとは思えない人間が悪霊を殴っている光景に驚きを通り越し呆れていた美智恵は我に帰ると、吸引の二字が書かれた札をかざした。

「吸引」

 札は光をはなち、目の前の悪霊の存在をこの世から消し去った。
 さすがに疲れたのか大樹は、床に腰を下ろし息を荒くしている。ふと、自分を不思議な生き物でも見るかのような視線に気づく。

「えっと、どちらさまで?」
「ここの除霊を頼まれたGSです」

 聞きたいのはこっちのほうよと苦笑しながら答えた。

「それにしても凄いですね、悪霊を素手で殴るなんて」
「へっ、いや気がついたら」

 ――悪霊に絡まれていたとはいえ、こんな美人がいたことに気がつかないとは俺としたことが。声を…いや、さすがにそれはどうだろう、そもそもここでこんなことをしてる暇があるのか一刻も早く百合子さんを探さにゃ。
 ようやく正道に戻ろうとした大樹の意識に一つの高く幼い声が割り込んできた。

「ママー」

 見ると、美智恵に似た幼女がトテトテと走り寄ってくる。

「れーこ?」

 それに美智恵は気づくと、驚きながらも幼女を抱きついてくる幼女を受け止め抱えあげた。

「ママー」
「来ちゃダメって言ったでしょ」
「……ごめんなさい」
「もう…ママを心配して探しにきてくれたの?」

 れーこはコクリとうなずいた。
 途端に美智恵の表情が柔らかくなり、娘をギュッと抱きしめ、頬をすり合わせる。

「そう、ありがとうね」

 ――ああ、親子っていいなぁ……親子?
 そこで大樹はなにかに気づき、口を開いた。

「あの、どういったご関係で?」
「親子ですけど?」

 それが何か? とでもいいたげにきょとんとした表情で質問に答えた。
 その瞬間、大樹の中でなにかが切れた。

 ――親子、母親、人妻、幼な妻!なんという悪条件。しかし、しかしだっ! そこにこそ燃えるっ! このハードルを乗り越えないでなにが男か! 落とす、意地でも落としてみせる!
 あっさりと、あまりにもあっさりと翻意すると、美智恵に向き直り尋ねた。

「ところでこの後なにかご予定はありますか?」
「へっ?」
「いえ、ここでこうして会えたのも何かの縁。あなたさえよろしければどこかで食事でも…」

 大樹は途中から美智恵の視線が自分ではなく自分の後ろに向けられていることに気づいた。
 振り返る、そこには鬼が一匹。
 いや正確には、鬼のような形相の女性が一人。
 先ほどの自分と悪霊の関係が繰り返されるのを見た。
 つまり、百合子が近づくたびに大樹が一歩下がる。GSとして修羅場をくぐり抜けてきた美智恵ですら、その間に口を挟むのは不可能だった。

「浮気?」
「いや、その」
「浮気するんだ?」
「そうじゃなくてですね」
「そうじゃなく何?」
「うっ、ああっ」

 さきほどと似た、そしてはるかに危険な状況にうろたえる大樹に、百合子は感情のこもっていない質問を繰り返す。

「これは浮気?」

 壁に背が当り、大樹の足が止まった。
 逃げ道はもうないらしい。

「は、はい」
「そう……日に二度浮気する馬鹿があるかぁっ!」
「#WY%&O+YTH$%#%&」

 打撃音は二度。渾身の力が込められた右、そして返しの左。声にならない悲鳴が部屋中に響いた。面白い軌道を描いて、日に二度浮気した馬鹿が飛んでいく。
 そんな様子に呆気に取られていた美智恵は、自分が教育的に大きなミスを犯していることを気づいていなかった。れーこの目を閉じ忘れていたのである。これがどんな影響を幼児に及ぼしたのか、それを知るものはまだいない。ただ、れーこの目が好奇心に満ちていたことだけは、はっきりとしていた。


「す、すんま……せんでしたぁ」

 どうして口が利けるのか不思議なくらい、顔を腫らした大樹の弱弱しい謝罪の声。
 百合子は、そんな大樹のことを腕を組んでじっと見つめている。

「えっと、その」
「ったく、今度浮気したら許さないからね」

 美智恵にはそのときの彼女の顔が、心持ち赤くなっているように見えた。

「いいなぁ、夫婦って」

 クスリと笑うと、自分の旦那の顔を思い浮かべた。部屋から出て行く二人の顔を見ながら自分にだけ聞こえるくらいの声で呟いた。

「ママ?」
「なんでもないわ。さてと、夕飯なんにしましょうか?」
「んーとねぇ、ハンバーグ」

「はいはい」

 ――公彦さん、ちゃんと食べてるかしら?
 自分の旦那の顔を思い浮かべ、再びクスリと笑った。

 

 

 

 


 そして時間は再び現代に

「ということなのよ」

 百合子が語り終えたときには日はとっぷりと暮れ、話始めに補充されたティーポットもすっかり軽くなっていた。
 なにやら複雑な表情の百合子、懐かしさに顔をほころばせている美智恵、父親が美智恵までナンパしていた事実に嫌な汗を流す横島、「そんなことがあったんですか」と感心するキヌ、母子ともに口説かれていたことに驚く令子、そんなことは我知らずと母親の腕の中でキャッキャッと声をあげるひのめ。
六者六様で話をかみ締めていた。ふと美智恵が口を開いた。

「そういえば旦那さんはお元気ですか?」

 横島の背中が隠していたテストを見つけられた小学生のようにビクッと震えた。

「どうかしたんですか?」

 とキヌ。

「いや、短い間だったけどお世話になったね」
「はっ?」

 何を言ってるのかわからないキヌを尻目に、百合子がバツの悪そうな顔で「こんな話をした後になんですけど」と口を開こうとした瞬間、外からキキキッと甲高い音がした。
 全員の注意が窓の外に注がれる。視線がぶつかったのは濃いブラックマークを残し、停車したレンタカー。
 ドアが開き、相当焦っているのか汗をだらだら流しながら出てきたのは、息子にとっては久しぶりに見る顔、そして母親にとっては見飽きた顔。横島大樹であった。
 百合子はそれを見ると、ニンマリと笑いヤレヤレと言いたげなため息を漏らした。
 ――ったく、間のいい男ね。
 そして美智恵に向き直り質問に答えた。

「ええ、元気ですよ。とっても」

 ――いつになったら今度になるのやら。
 自分のことながら百合子は、心の中で苦笑せざるを得なかった。

 終わり