目を覚ました五郎丸柊子が最初に視界に入れたのは、フローリングの床だった。
 状況が分からず、体を起こそうとした瞬間、自分の体の異変に気付く。
 体全体を襲う気だるさ、脈打つように頭にはしる痛み。自覚できるほど強く自分から漂うツンとした甘い匂い。
 その原因を考える余裕も無いし、考えるまでもない。
 二日酔いだった。
 立ちあがろうと、支えを求めテーブルに伸ばした右手が呑み終えてそのままにしていた缶ビールの空き缶に当たり、カランと空虚な音を立てながら将棋倒しに倒れていく。
 柊子が二日酔いになることは珍しくない。好きではあるが、酒豪といえるほど強くも無いし、酒が入ったときに翌日に残さないよう節制できるほど生真面目でもない。
 それにしても、ここまで酷い二日酔いは初めてだった。
 雑然としたテーブルの上を見れば、数える気力も無くなるような本数の、缶ビールの空き缶が転がっている。
 立ち上がり、よろめきながら洗面所へ歩いていく。
 まだ、酒が抜けていないらしい。足が自分の物ではないようだ。
 なんとか洗面所に辿り着き、洗面台にもたれて、鏡を見る。
 着たまま寝たブラウスのボタンは一つずつズレている。髪はいつもどおりに寝グセが酷い。今更気付いたが、眼鏡もかけっぱなしで寝てしまっていた。
 鏡の中の情けない自分に、愛想笑いをしてみる。
 が、浮かんだのは歪んだしかめっ面だった。 
 
「ダメダメだなぁ、私」

 掠れた声でどこか自嘲気味に呟く柊子の、赤く腫れあがった目から一滴だけ透明な滴が流れた。 

 

 

 

 一杯まで缶ビールとツマミを詰め込んだ紙袋を抱え、柊子は自室のドアを開いた。

「ただいまぁ」

 親元を離れて以来、誰かに向けてこの言葉を発するのは初めてかもしれない。同期の友人達と会うときは、専ら外でだったし、異性とそこまで深い関係になったこともなかった。
 だが、返事がない。
 返事はないが、扉は開いている。まさか泥棒にでも入られたのかと一瞬だけ心配したが、合い鍵を渡していたし、約束の時間も過ぎているのだから、もしかしたら自分を待っている間に眠ってしまったのかもしれない。そう納得し、紙袋を持ちなおし、リビングへと進んでいく。
 キッチンから物音が聞こえた。
 はて、待ちきれずに食べ物を物色し始めたのかと覗いてみると、そこには合鍵を渡していた少女が立っていた。
 改めて、「ただいま」と言おうと口を開きかけて、柊子はフリーズした。
 異様な光景だった。
 少女の服装は、部屋の中にいるのにも関わらず黄色い雨ガッパという奇妙なものであったが、それについては見慣れたことだから柊子には驚かない。
 問題なのは、雨ガッパの背中にナイフやら、フォークやら、スプーンやらを張りついていることだ。手にフォークを持っているところを見ると、また張りつけようとしていたらしい。

「えーと、何やってるんですか? ワンコさん」

 ワンコと呼ばれた少女、獅子堂戌子は気まずそうに振り向いた。
 
「ちょっと早かったねー。あと一分もあれば、ボクの持ちギャグの一つ。ハリネズミで驚かせてあげたのに」

 「はあ」と呟くしかない柊子の目の前で、赤面しつつ頬をポリポリと掻く戌子の背中から、張りついていたナイフやらフォークやらスプーンやらが、けたたましい音を立てながら床に落ちていく。
 ナイフが一本、ストンとフローリングの床に突き刺さった。

「ああっ」
「おかえりー」
「あっ、ただいま」

 「これなら、カーテンレールにぶら下がる、怪奇コウモリ少女にしておけばよかったかな」などと呟きながら、床に刺さったナイフを引き抜く戌子に、柊子は修理費のことを考えながら、引き攣った愛想笑いを浮かべるしかなかった。

 

「じゃ、かんぱーい」
「かんぱーい」

 グラスに注いだビールに口を付ける。柊子も、目の前の少女もプフゥと満足そうに吐息をもらした。

「あれ? そういえばワンコさんって――」
「一七。未成年だねー」
「えっと、じゃあ」
「うん。五郎丸支部長代理の監督不行届だねー。減給で済めば良いね」
「の、飲んだのはワンコさんじゃないですかぁ」
「注いだのは、貴女だよー」 
「なっ! ちょっと!」

 グラスにビールを注いでいた柊子に、まるで自分にも注いでくれと言わんばかりにグラスを差し出したのは戌子ではないか。そう抗議しようとして、しかし、勢いとはいえ自分も注いでしまった。
 そこまで考えて、柊子は思いなおした。どうせ二人だけしかいないのである。

「まっ、バレなきゃ大丈夫ですよね」
「物分りの良い人は好きだよー」
「ありがとうございます」

 ニコリと笑顔をかわし、二人は再びグラスを軽くぶつけ、半分ほどビールを喉に流し込んだ。
 


「そうっ! そうなんですよぉ! 大助さんったら、ちょっとミスすると叱るし、私の言うことなんて聞いてくれないし、自分のこともちっとも話してくれないし」

 酔いも程よく回り始めた頃、七つも年下の部下の不満を口にした柊子はテーブルに突っ伏した。
 今日も、元相棒と積もる話があるだろうと誘ったのに、顔をしかめた大助の返事はつれなく「遠慮しとくよ」の一言。
 
「彼は昔から変わらないようだねー」

 戌子が、手の焼ける子供を見るように苦笑した。

「ボクにもよく反発したものだよ」
「そんな時、どうしてたんですか?」

 涙目で縋るように尋ねる柊子に、戌子は拳を握り締め、あっけらかんと答えた。

「殴ったよー」
「へ?」
「言うことを聞かない子供には鉄拳制裁。指導の基本だねー」
「いや、無理です」

 実際、自分が大助を殴ろうとしたらどうなるだろうと柊子は想像してみる。
 百倍返しだろうか? いや、そもそも当たらないだろう。それどころか、殴ろうとした瞬間に、睨まれてこっちが謝っているかもしれない。 
 どうにもパッとしたことにはなりそうもない。
 もう一度「無理です」と呟いた柊子に、思いついたように戌子が提案する。

「そうだ、かっこう≠ノも飲ませてみればいいんじゃないかな。そうすれば、素直に話すかもしれないよ」
「それ材料にすれば、従ってくれるかもしれないですしね。よし、誘ってみよっと。
 そういえば、私、部下運に恵まれてないんですよねー。大助さんは大助さんだし、石巻さんはいじめるし、有夏月さんは冷たいし、千莉さんは優しいけど」

 いじいじとグラスを弄くる柊子に、ビールを注ぐ戌子。

「ありがとうございます。そういえば、どうですか?」

 主語を欠いた言葉であったが、自分から聡明と言うだけあって戌子には柊子の真意を察したようだ。

「火巫女≠ゥい?」
「ええ」

 戌子が満足そうな笑みを浮かべ、言った。
 
「いい生徒だよ、教えがいが有る。才能があるし、なにより素直だからねー」
「そうですか」

 安堵すると同時に自己嫌悪に襲われる。
 恩人の妹が、戦闘員として優秀になることを自分は喜んでいる。どうにもやりきれない。
 そんな柊子に、一度だけ見物した訓練中に出していた厳しい声で戌子が言う。

「虫憑きは、平穏無事に過ごすことなんてできないんだよ。だから、生き残るためには戦うしかないんだよ」
 
 目の前の少女は、口癖のように戦うという言葉を口にする。
 ――戦う。
 何事もなんとなく≠ナやり過ごしたい柊子にとってその言葉は、どこか当惑してしまう強い響きを持っていた。
 大助、土師のことを思ってみる。彼らは自分の周りを敵だらけしながらも、それでも強くあろうとしていた。
 ――自分はどうだろう?
 彼らや、目の前の少女に比べると、そこまで強くなる自信はない。

「火巫女≠ノ比べて――」
「有夏月さんですか?」
「うん。あれはダメだねー」

 あっさり切り捨て、不機嫌そうに皿に盛られていたピーナッツを頬張る。
 
「ダメ――ですか?」
「うん。ヘタレだからね。それに、あのヘナチョコな顔を見ていると――思い出すんだ。ボクは――」

 戌子が、指で摘んでいたピーナッツが二つに割れた。
 戌子にしては、珍しく感情をもてあましたように口篭もった。
 「何を」と問おうか逡巡していると、戌子はピーナッツを一つ指で弾き口に入れ、打って変わって、明るい声で話を変えた。

「ところで、支部長代理の夢は何だい?」
「夢、ですか?」
「まあ、当面の目標でもいいや」

 困った。一つ、心に秘めた思いがあるが、自分の立場を考えればなんとも口幅ったい目的だ。
 代わりに、ふと微笑を浮かべて自分に厄介な仕事を回してくる上司の顔が浮かんだ。

「副本部長を、ギャフンと言わせたいです」

 キョトンとした後、戌子が吹き出した。釣られて、柊子も笑う。

「貴女は見かけによらず度胸があるんだねー」

 そうかそうかと大きく頷く戌子。
 たしかに自分の事ながら、大きなことを言ったのかもしれない。無能と名高い五郎丸柊子が、あの魅車八重子副本部長をギャフンと言わせるなど、成る程、ありえないことだ。

「でも、そんなことボクに言っていいのかな?」

 頭を掻いていると、戌子の笑いの調子が変わってきた。どこか、意地悪い笑顔に見える。
 戸惑う柊子に、戌子が言葉を続ける。

「だって、ボクは旅をしているとはいえ中央の人間なんだよ?」
「へっ、あっ、いやっ、ジョークですよ、ジョーク。ハハハ」
「こっちもジョークだよ。だから、そんなに青くならないでもいいよ。ボクも魅車副本部長は――苦手だからね」

 再び質の変わった戌子の苦い笑顔を見ていると、「苦手」という言葉は、相当控え目な表現のようみ見えた。
 苦笑を交し合った二人は、お互いのグラスをビールで満たし、共通の苦手な相手に向けて、再び乾杯をした。

 結局、柊子の失敗話、戌子の教え子である虫憑きの話を交えて、二人だけの宴は一晩中続いた。教え子のことを語る戌子は、どこか嬉しそうだった。 
 いつになく、美味しい酒だった。だから、呑みすぎた。当然のように、翌日は二人とも二日酔い。特に柊子は石巻、そして大助に冷たい目で見られた。
 それでも、この夜のことはふと思い出したくなるような楽しい思い出になった。

 

 

 手に水を溜めては、顔にぶつける。
 全開された蛇口から出る水は、骨身に染みるほどに冷たいが、それでも柊子がそれを止める様子は無い。 

 知らせを受けたのは、昨晩、愛車であるビートルを宿舎の駐車場に止めた直後のことだった。
 ――あさぎ≠ェホラント市で死亡した。
 携帯電話の向こうから聞こえる石巻支部長補佐の報告は、淡々としていて、無駄な表現は無く簡潔だった。
 局員達には時期を見て伝える。おそらくは自分の同意を必要としていない、半ば決定事項であろう提案を受け入れた後、柊子は自室に戻るしかなかった。
 柊子にできることは無かった。
 あさぎ≠ェ死亡したことから生じる雑事は、彼女が所属していた中央本部の仕事になるであろうし、東中央支部の局員に伝えることすらも石巻の言う通り、時期を見たほうがいいのだろう。とくに、彼女の相棒であった少年に、現状では知らせる時期を、慎重に選ばなければならない。
 少なくとも、今、柊子にできることは何も無かったし、仮にあったとしてもそれをこなせるとは到底思えなかった。
 だから、呆然と酒を呑んだ。
 自分の酒量なんて考えず、涙を拭くこともせず、ただただ呑んだ。
 その夜、潰れるまで呑んだ酒は、ひどく不味かった。

 息を付く間もなく洗顔を繰り返したせいか、息は荒く、顔は赤い。
 それでも、頭痛は少しだけマシになったような気がする。
 水道を止め、手の水滴を切る。
 
「冷たいなぁ」

 虫憑きを守りたい。
 あの日、一人の可愛らしい、小さな夢を大切にしている少女に出会ったとき心に芽生えた思いは、今も変わらない。それどころか、強くなっている。
 でも自分に何ができるだろうか?
 虫憑きを守る? とんでもない。自分がやっているのは、突き詰めてしまえば、少年少女を戦力として計算し、戦闘を強いる、彼らを駒にしたパワーゲームだ。
 それを守るなどと言うのは、傲慢なのかもしれない。
 だが、それ以外に柊子が懸命に生きようとしている少年少女達の為に出来ることなどない。
 そんなことしかできないことが辛い。このことを話さなければいけないことが怖い。戌子が死んでしまったことがただただ悲しい。
 ならばどうする?
 ならば――

 土師のように何にも揺らがないような強さは得られないかもしれない。
 みっともなく脅えるかもしれない、何もかも捨てて逃げ出したくなるかもしれない、自分の不甲斐なさに泣くかもしれない。
 それでも、無能なら、無能なりに。
 何と呼ばれようと仕方ない。
 恨まれようと構わない。
 彼らが救われるまで。
 最後の最後まで。

 ――戦おう。

 そう誓い、柊子はいつものように身支度を始めた。
 いつもより、少し強い心で。

 

 終