吉法師、後に信長と呼ばれることとなる少年は、柿の木に実る柿の実をじっと見ていた。

 腹が減っていたわけではない。
 第一、柿は部屋にあったし、誰かに取るように命じればすむことである。
 だが吉法師は自分の力で柿を取りたかった。
 吉法師が母親の元から離れたのは一月前。その頃からである。吉法師は”うつけ”と呼ばれ始めたのは。
 吉法師が跡継ぎとしての経験を積むための実験的行動は、周囲の家臣たちの目には奇行としかうつっていなかった。 もっとも、彼自身の実験も大した成果を上げずに終わることのほうが多かったのだが。

「よっ、と」

 なるべく高いところにある枝に飛びつく。
 しかし、手が掛かり体重が加えられた瞬間、枝は吉法師の重みを支えられず、音を立てて折れてしまった。空中で支えを無くし、体勢を崩した吉法師は、地面に打ちつけられた。
 背中を強く打ちつけたため、しばらくは息をするのもままならない。なんとか呼吸を取り戻そうともがいていると、ふと人の気配がした。

 「わ、若どうなされました?」  

 吉法師に駆け寄ってきたのは、見慣れた、いや、見飽きた顔だった。
 うるさいのが来たと思いつつ、なんとか呼吸を取り戻すと、短く「柿だ」と答え、また背中の埃を払いながら登るのに手頃な枝を探し始める。
 今度は低いところにある比較的しっかりとした枝に狙いを定め、手を掛けようとしたそのとき、吉法師の体が浮いた。
 いや、正確には平手に持ち上げられていた。

 「じ、じい?」  

 吉法師の驚きの声を無視するかのように、平手は彼の体を枝に近づける。

「さっ、これなら届きましょう」

「あ、ああ」

  戸惑いながらも吉法師は柿の実に手を伸ばし、よく熟したそれを三つ懐に入れた。

「取れたぞ、おろせ」

 しかし、吉法師のその言葉は無視され、逆に更に高く持ち上げられ肩車にされていた。

「お、おい?」  

 その言葉も聞こえないかのように、平手はゆっくりと歩き出し、「若もまだまだ軽うございますなぁ」と笑った。 吉法師がバツの悪そうな顔をしていると、ふと平手が足を止める。

 「若、大きくなりなされ。じいはいつでも若の味方ですぞ」

「……ああ」

 平手は満足そうに頷き再び歩き始めた。 吉法師はこみ上げてくるものをごまかすため柿を口に運んだ。
 果汁が吉法師の腕をつたい平手の頭へとしたたり落ちた。

「わ、若。やめてくだされ」  

 吉法師はニヤリと笑いガブリと柿にかぶりついた             

 

  終